なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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正確にはサラーフ=アッディーン(「宗教の救い」の意味)だが、ヨーロッパにはサラディンという名が伝えられ一般化した。シリアのクルド人部将アイユーブ家の出身で、イスラーム神学を修め、17歳でダマスクスのザンギー朝に仕えた。サラディンの父のアイユーブは、ザンギー朝を創設したザンギーの有能な武将として活躍していた。ザンギーの子のヌールアッディーンが、エジプト・ファーティマ朝の内紛に介入して、アイユーブの兄弟のシールクーフを派遣したとき、その甥のサラディンもそれに従って出征し、アレクサンドリアの攻略などで活躍した。シールクーフはファーティマ朝に乗り込んで宰相に任じられ、実権を握った。1169年、シールクーフが急死したため、ファーティマ朝宰相となったサラディンは、カイロで実権を握って実質的にアイユーブ朝を興した。
サラディン(映画「キングダム・オブ・ヘブン」より)
さらに、1171年にファーティマ朝の最後のカリフが病死するとバグダードのカリフの承認のもと、アイユーブ朝のスルタンとして正式に承認された。またダマスクスのザンギー朝ヌール=アッディーンが死ぬと、1174年にはダマスクスに無血入城を果たしシリアも併合した。こうしてカイロとダマスクスを抑え、エジプトからシリアに及ぶイスラーム世界はサラディンを最高指導者として仰ぐこととなった。
ダマスクス旧市街に立つサラディン像
エジプト・シリアを併せて支配し、西アジアで最大の勢力を持つに至ったサラディンであったが、なお脅威として残っていたのが十字軍国家の存在であった。
昔イエスが住んだナザレ村の真北15キロの所にヒッティーンという丘がある。1187年7月、このガリラヤ地方の小さな丘が、3万余のサラディンの軍勢と1万数千のキリスト教徒軍の激闘の場所となった。
すでにシリアのダマスクスをおさえたサラディンは、本拠地のエジプトから攻め上る軍団とでイェルサレムを挟み、キリスト教徒どもを海中へ叩き落とそうとしたのだ。そのための戦略的な拠点となるガリラヤ湖岸のティベリアに矛先をのばした。
ヒッティーンの西南15キロのサッファリア城にいたイェルサレム王ギーは、サラディン軍の出方を待つという初めの作戦をかえて、7月3日の朝、ティベリア救援のため、全軍に出撃を命じた。翌朝、イェルサレム王国の軍勢は、ヒッティーンの2つの丘の間の岩肌ばかりの山道をくだり、ガリラヤ湖に進もうとして、長蛇の隊列を東斜面に並べた。
ヒッティーンの戦い
すでにこの動きを探知し、この瞬間を待って潜んでいたサラディン軍が、いっせいに襲いかかった。一列縦隊の十字軍部隊は、みるみるうちにアラブ騎兵軍に断ち切られた。圧倒的なサラディン軍の前に、十字軍の将兵はなすすべを知らず、折り重なって斃れた。折から昇りつつある太陽の光が血の海に鈍く反射した。
イェルサレム王ギーや王弟をはじめ、王国の指導者たちはみな捕虜となった。十字軍将兵の約半数はこの戦いで死んだ。
その後2カ月の間に、イェルサレム王国が支配していたアッコン・ヤッファ(テルアビブ)・ベイルートなどの海岸都市が次々にサラディン軍に占領された。そして、9月20日、イェルサレム城もついに降伏し、88年ぶりにイスラーム側がイェルサレムを奪還した。
サラディンは、守りの手薄なイェルサレム城の守備隊長が町に火をかけるつもりであることを知り、身代金と引き替えに、城内のキリスト教徒をすべて許し、イェルサレムを焦土寸前で救った。キリスト教寺院の上にあげられていた十字架が地上に落とされたほかは、何一つ打ち壊されなかった。
「十字架が地上に落下した時、そこにいたすべての者は大声を張り上げて叫んだ。イスラーム教徒は「アッラーの神は偉大なるかな!」と叫び、フランク人(キリスト教徒のこと)は悲しみの声を発した。このどよめきのために大地はゆり動いたかのようであった。」と、イスラーム教徒の『年代記』はその日のイェルサレムの光景を描いている。
フィリップ2世(尊厳王)
この事態に対して教皇グレゴリウス8世は、聖地奪還を目的とする新たな十字軍の派遣をイングランドやフランスに呼びかけた。イングランド王ヘンリー2世とフランス王フィリップ2世(尊厳王)は領土問題を巡って戦争状態にあったが、要請を受けたことでこれを終結し、双方とも国内では「サラディン税」を課して十字軍編成のための資金とした。しかし両国間の戦争はすぐに再開し、さらにイングランド国内では、ヘンリーの息子リチャードがフィリップに臣従し父と敵対していた。
フリードリヒ1世(バルバロッサ)
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世も教皇の呼びかけに答え、十字軍の第一陣として1189年に出発した。第3回十字軍の始まりである。フリードリヒは赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、バルバロッサ(赤髭王)と呼ばれた。フリードリヒは翌年にイコニウムの戦いでアイユーブ朝軍を打ち破るという大戦果を収めたが、6月10日、小アジア南東部キリキアのサレフ河で溺死するという意外な最期を遂げた(これには諸説があり、フリードリヒは脳卒中のために溺死したとも、暗殺されたともいわれる)。フリードリヒを失ったことから、ドイツ軍は早くも解散してしまう。
リチャード1世(獅子心王)
1191年4月、フィリップ2世はドイツの敗残兵を加えてアッコンの攻囲を開始し、6月にはヘンリーの死後に即位したリチャード1世(獅子心王)の軍が包囲に加わった。アイユーブ朝軍は包囲を破ろうと試みたが撃退され、7月12日アッコンは陥落した。
しかしその後、十字軍側の3人の司令官の間に内部抗争が起きた。ドイツ人たちの司令官であったオーストリア公レオポルド5世はは、リチャードやフィリップと同列に扱われることを欲し自身の旗を掲げたが、リチャード側はこれを撤去したため、激怒したレオポルトは十字軍から離脱し、帰路についた。一方フィリップは、病気を理由に7月末に帰国し、リチャードは十字軍でただ一人残ったキリスト教国の君主として戦うはめになった。
リチャードとサラディンは戦闘と同時に1年以上に渡って交渉を重ね、1192年9月2日、休戦協定を結んだ。サラディンはこの協定で非武装のキリスト教徒の巡礼がイェルサレムを訪れることを許すなど、節度と寛容を示したので、彼の名声と騎士道精神はヨーロッパにも広く伝わった。
9月末、リチャードはイングランドに向けて出発し、第3回十字軍は終了した。しかし、リチャードは単身帰国途上のドイツで捕らえられ、2年間の抑留ののち釈放される。当時流行った身代金目的の営利誘拐であった。リチャード1世のあと、かのジョン王が登場することになる。
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9月末、リチャードはイングランドに向けて出発し、第3回十字軍は終了した。しかし、リチャードは単身帰国途上のドイツで捕らえられ、2年間の抑留ののち釈放される。当時流行った身代金目的の営利誘拐であった。リチャード1世のあと、かのジョン王が登場することになる。
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