なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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1190年、長く教皇権にとって敵対する存在だった神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)が第3回十字軍の途上に事故死したことで、ローマ教皇インノケンティウス3世の権威は最高のものとなった。
こうした時、インノケンティウスの脳裏にはウルバヌス2世と同じく、十字軍の大義を説いてヨーロッパを統合させ、その上に教皇の覇権を樹立しようというアイデアが閃いた。彼は機敏な外交家だったので相争う諸国をたくみに操縦しながら、結局一種のヘゲモニーを樹立するのに成功したのだったが、諸国の王を十字軍に糾合することにはまったく失敗した。
彼の呼びかけに応じたのは、シャンパーニュやフランドルの伯を中心とした、主に北フランスの騎士たちだった。ところが、この騎士たちの十字軍は、驚くべき方向転換をやってのけたのである。
こうした時、インノケンティウスの脳裏にはウルバヌス2世と同じく、十字軍の大義を説いてヨーロッパを統合させ、その上に教皇の覇権を樹立しようというアイデアが閃いた。彼は機敏な外交家だったので相争う諸国をたくみに操縦しながら、結局一種のヘゲモニーを樹立するのに成功したのだったが、諸国の王を十字軍に糾合することにはまったく失敗した。
彼の呼びかけに応じたのは、シャンパーニュやフランドルの伯を中心とした、主に北フランスの騎士たちだった。ところが、この騎士たちの十字軍は、驚くべき方向転換をやってのけたのである。
この第4回十字軍については、シャンパーニュ伯に仕えた高位の騎士で、自らも参戦したヴィルアルドアンの素朴だが生き生きとした記述がある。それによると、イスラーム教徒の本拠地であるエジプトのカイロを海路で攻撃する(洒落ではありません)こととした十字軍将兵は、輸送をヴェネツィアに依頼した。
1201年に十字軍参加者はヴェネツィアに集結し始めたが、予定した3万人の約1/3しか集まらなかった。このため、参加者の有り金を全部集めてもヴェネツィアに支払う船賃が大幅に不足し、出航できなかった。
ヴェネツィアの船
ヴェネツィア商人は、少し前ハンガリー王に奪われたアドリア海の都市ザラを取り返してくれたら、不足分は帳消しにしようと申し出た。カトリックであるザラの攻略には、十字軍内にも大きな抵抗があったが、十字軍将兵はやむなく承知した。怒ったのは教皇インノケンティウスで、ローマ教会の忠実な子ハンガリー王に十字軍を向けるとはもってのほかとばかり、十字軍将兵を破門にした。ここに破門された十字軍という前代未聞の遠征が始まったのである。
ザラは簡単に墜ちた。そこで十字軍将兵は今度こそはエジプトへと希望に胸を膨らませて、ザラを出帆した。すると、予めヴェネツィア側と打ち合わせのあった十字軍の指導者たちは、エジプトの代わりにコンスタンティノープル行を提案した。ヴェネツィア商人にとってカイロは重要な貿易相手であり、コンスタンティノープルは商売仇だったからだ。人々はびっくり仰天したが、北フランスの騎士とヴェネツィア人の説得にあって、これも同意してしまった。
コンスタンティノープルを攻撃する十字軍
実は、当時コンスタンティノープルでは、おきまりの宮廷の陰謀事件で、皇帝イサキオス2世が弟のアレクシオス3世に帝位を簒奪されていた。イサキオス2世の息子である亡命皇子アレクシオスが、十字軍に帝位奪還の助力を願い出たのだ。見返りとして、20万マルクの支払い、東ローマ帝国の十字軍への参加、東西教会の統合を提示した。これに十字軍指導者とヴェネツィア商人が飛びついたわけだ。
1203年6月にコンスタンティノープルに到着した十字軍は、アレクシオスを帝位に就けるよう要求したが拒絶され、7月に攻撃を開始した。コンスタンティノープルはそれまで数々の攻撃を防いできた難攻不落の城塞都市であったが、十字軍はヴェネツィアの優勢な海軍力を生かして海側から攻撃を仕掛けると同時に、陸上からフランス騎士隊が攻撃をかけた。攻防の途中でアレクシオス3世は逃亡し、残された者はイサキオス2世を復位させて、城門を開いた。
1203年6月にコンスタンティノープルに到着した十字軍は、アレクシオスを帝位に就けるよう要求したが拒絶され、7月に攻撃を開始した。コンスタンティノープルはそれまで数々の攻撃を防いできた難攻不落の城塞都市であったが、十字軍はヴェネツィアの優勢な海軍力を生かして海側から攻撃を仕掛けると同時に、陸上からフランス騎士隊が攻撃をかけた。攻防の途中でアレクシオス3世は逃亡し、残された者はイサキオス2世を復位させて、城門を開いた。
しかし、父イサキオス2世とともに共同皇帝として即位したアレクシオス4世は十字軍との約束を果たせなかった。東ローマ帝国の国庫にはそれだけの金がなく、東西教会の合同にも正教会側の激しい抵抗があったからだが、その結果、両者は決裂し、1204年4月、十字軍は再びコンスタンティノープルを攻撃することになった。今度は東ローマ側も慣れてきており、十字軍側の苦戦が続いた。しかしコンスタンティノープル城内にはヴェネツィアの居留民が大勢住んでおり、彼らが東ローマへの抵抗に回ったため、12日コンスタンティノープルはついに陥落した。市内に乱入した十字軍は破壊と暴行の限りを尽くした。ハギア=ソフィア大聖堂に立てこもった者も含めた聖職者、修道士、修道女、市民たちは暴行・殺戮を受け、一般市民・修道女の別を問わず女性達は強姦された。
ドラクロワ作「コンスタンティノポリスの陥落」
事前の約束に従ってヴェネツィアと十字軍は略奪品を折半し、フランドル伯ボードアンをこうして出来たラテン帝国の皇帝に推した。ヴェネツィアは沿岸の島々とコンスタンティノープルの一劃を取り、内陸は十字軍が分け合った。
こうした第4回十字軍の東ローマの分配は、金時計を拾った野蛮人のやり方に似ている。1人が黄金のケースを、1人がぜんまいを、そしてもう1人が針を取る。しかし、東ローマは時計と同じく全体一つで初めて機能する。十字軍領主下でばらばらの領邦に分割されたラテン帝国が、かつての東ローマ帝国に匹敵するような有力な政治的・経済的存在となることはなく、わずか60年足らずで滅びてしまう。
ところで、コンスタンティノープル征服で困ったのは教皇インノケンティウス3世だった。破門した十字軍が奇妙な大成功を遂げるのを見て、途端に手を替え、この成功を東西教会の合同として祝福したのである。
こうした第4回十字軍の東ローマの分配は、金時計を拾った野蛮人のやり方に似ている。1人が黄金のケースを、1人がぜんまいを、そしてもう1人が針を取る。しかし、東ローマは時計と同じく全体一つで初めて機能する。十字軍領主下でばらばらの領邦に分割されたラテン帝国が、かつての東ローマ帝国に匹敵するような有力な政治的・経済的存在となることはなく、わずか60年足らずで滅びてしまう。
ところで、コンスタンティノープル征服で困ったのは教皇インノケンティウス3世だった。破門した十字軍が奇妙な大成功を遂げるのを見て、途端に手を替え、この成功を東西教会の合同として祝福したのである。
この欲にまみれた大人達の行動が、少年十字軍という悲劇を引き起こすことになる。
1212年の夏のこと、北フランスのある村の羊飼いの少年エティエンヌは神をみた。貧しい巡礼の姿をした神は、彼に一片のパンを乞い、聖地の奪回と聖墓の解放を記した一通の手紙を与えた。それから暫くして、少年は追っていた羊の群れがいっせいに彼に跪くのを見た。ここで彼は神の使命をさとり、一心に神のお告げを広めて歩いた。まもなく何千もの少年少女が彼の伝道に従うようになった。同じような使命を自覚した少年が、国のあちこちに現れ、みな合同して、エティエンヌを統率者に仰いだ。彼らの年齢は一番年かさで12、3歳だった。
子供達の両親や司祭達は、もちろん彼らの冒険を思いとどまらせようと懸命になった。そのため一部は脱落したが、大部分は決心を変えなかった。一般民衆にいたっては奇蹟の出現に驚きかつ感動し、物や金を恵み、人目でも神の使いのエティエンヌを見んものと方々から集まり、その身体に触れ、衣服の一片を聖遺物にと切り取った。
フィリップ2世
このような興奮が為政者の耳に入らぬはずがない。国王フィリップ2世は司教やパリ大学の博士達の意見を聞いて、少年達に帰宅を命じたが、従う者は少なかった。教皇インノケンティウス3世はこの噂を聞いて、「我々は少年達に恥じる。我々が眠っている間に、彼らは悦ばしげに聖墓の解放におもむく」と感動の言葉を漏らした。
この感慨は第4回十字軍に裏切られたインノケンティウスとしては当然のものだったろう。だが少年十字軍は彼にとって他人事ではない。実は彼こそ最後の責めを負うべき人であった。第4回十字軍に失敗した後、彼は新しい十字軍を起こすため、全ヨーロッパに説教師を派遣した。その結果ヨーロッパには、一種独特の興奮した空気が漂っていたのだろう。女性は男性よりも感じやすく、子供はさらにいっそう感じやすい。
古屋兎丸「インノサン少年十字軍」
こうするうちにも少年達の大群は、道々その数を増やしながら南へ南へと下った。これに参加する者ももう子供だけではなくなった。僧侶、商人、農民、不自由身分の便用人、家内労働に徒事する召使、中には娼婦もいれば盗賊もいた。彼らはマルセイユの港から7艘の船に分乗して出帆した。ところがこの輸送をあずかったマルセイユの船主は、ヴェネツィアの商人以上のしたたか者だった。2艘の船はサルデーニャ付近で難破し、乗客もろとも浪に飲まれてしまった。しかし、残った5艘の船に乗った少年達も、より幸運であったわけではない。極悪非道の船主達は、少年達をアレクサンドリアに連れ去り、ここで一人残らず奴隷に売り飛ばしてしまったのである。
フランスに起こったのとまったく同じような少年十字軍が、偶然同じ1212年にドイツにも起こっている。彼らはケルンのニコラウスと呼ばれた10歳の少年に従って、ジェノヴァから南イタリアのブリンディシの港に着いた。しかし、ここで彼らは司教の強力な阻止にあい、故郷に送り返されてしまった。往路の元気はもはやなく、衣服は裂け、靴は破れ、乞食のようになった子供達が、再びアルプスを越えて帰るさまは、痛ましい限りだった。人が彼らになぜ十字軍に行ったのか尋ねた時、夢から覚めた子供達は、狐につままれたように、ただ、「分からない」と答えただけだった。
17年後、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がアレクサンドリアのスルタンと和を結んだとき、少年十字軍に加わり奴隷として売られていたうちの何人かが解放された。それでも700人が奴隷としてアレキサンドリアに残っていたという。
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