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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー聖王ルイ・十字軍⑤

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エル=グレコ「フランス国王聖ルイと小姓」

 ルイ9世はルイ8世の長子で、カペー朝第9代国王。美男で陽気な王子に成長し、1226年、父の死によりわずか12歳で即位した。初めの10年間はスペイン出身の母后ブランシュが摂政を務め、優れた政治手腕により、アルビジョワ十字軍を継続し、諸侯の反乱を抑えた。

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カルカソンヌにおけるアルビジョワ派の追放

 アルビジョワ十字軍は1209年、祖父であるフィリップ2世の時に始まっている。キリスト教の異端派であるカタリ派のうち、南フランスのものをアルビジョワ派というが、これを殲滅するための十字軍だ。

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火刑に処されるカタリ派の信者

 カタリ派はペルシアのマニ教の流れをくみ、善 (神、霊魂) 、悪 (悪魔、肉体) の2原理,2創造主の存在を信じ,不殺生,菜食主義,私有財産と結婚の否定など厳格な戒律をもった。『神の国』を著したアウグスティヌスが若い頃に信仰したことでも知られる。

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 この教えはトゥールーズ伯レーモン6世、彼の封臣フォア伯、ベジェ副伯ら南フランス諸侯の熱烈な支持を受けて 12~13世紀にトゥールーズ、アルビ地方に広まった。これに対しインノケンティウス3世は教皇特使ピエール=ド=カステルノーの暗殺  をきっかけとして、北フランス諸侯に十字軍を要請、
北フランスの諸侯の多くが参加し、指揮官がシモン=ド=モンフォール(イングランドで国王ヘンリー3世に反旗を翻し議会の開設に貢献した同名の人物の父親)のもとで激しい攻撃が行われた。

 アルビジョワ派は20年にわたって抵抗を続けたが、ルイ9世の
時の1229年、トゥールーズ伯レーモン7世とパリ条約を締結し、アルビジョア十字軍は終結した。これによってフランス国内の異端は殲滅され、南フランスまでフランス王権が拡大され、フランスの統一が進んだ。

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サン=シャペル大聖堂のステンドグラス

 1236年、親政を開始すると、敬虔なカトリック教徒として国政でも公平無私・平和と正義を旨としたため、その長い治世の間、国内は安定してカペー朝の全盛期を生んだ。学問・芸術・慈善事業などの振興に心をくだき、サン=シャペル大聖堂を造営し、パリにソルボンヌ神学校(のちのパリ大学)を創設、テンプル騎士団を育成し、施療院を開設した。

 ルイ9世は1239年、コンスタンティノープルのラテン帝国皇帝ボルドワン2世に対して3万5000リーブルもの大金を支払って、キリスト受難の貴重な聖遺物である荊冠を購入している。そうした
聖遺物のコレクションを納めて礼拝するために建設したのがサン=シャペル大聖堂で、パリ最古のステンドグラスを誇る。

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クリュニーにおけるルイ9世と教皇インノケンティウス4世

 国内外の平和を取り戻すと、ルイ9世はかねてから悲願の十字軍(第6回十字軍)の遠征を計画し始めた。1244年にイェルサレムは再びイスラーム教勢力により陥落していたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はローマ教皇インノケンティウス4世と対立しており、イングランド王ヘンリー3世は国内の反乱の対処で忙しく、西欧で十字軍に行ける余裕があるのはルイ9世だけだった。

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 フランス内部にも反対の声は強かったが、ルイ9世は押し切り、2万ばかりの兵を率いて1248年に出発した。アイユーブ朝のエジプトを攻撃したが、敗北して全員捕虜となった。

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捕虜となったルイ9世

 捕虜の総数は1万人を超えるとも言われる。解放交渉の途中にエジプト側でクーデタがあり、アイユーブ朝のスルタンが廃され、マムルーク朝が始まっている。マムルーク朝との交渉により、占領地の放棄と、40万リーブルという莫大な身代金でルイは解放された。しかし、この身代金で解放されたのは捕虜全体の一部だけで、そのほかの捕虜は奴隷となるか、イスラームに改宗することを余儀なくされた。

 こののち、ルイ9世は聖地イェルサレムへ巡礼の旅に出ている。その一方でイスラーム教勢力に対する同盟国を見つけるため、1253年にフランシスコ会修道士ウィリアム・ルブルックをモンゴルへ派遣した。ルブルックはコンスタンティノープル・クリミア海岸・ドン川・ヴォルガ川を経て約8000キロを踏破、カラコルムに達してモンケ=ハンに謁見したている。

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ジャン=フーケ作「チュニスの戦いとルイ9世の死」

 1270年、第6回の失敗の回復に燃えるルイ9世は、リベンジを果たすため第7回十字軍を起こした。すでにかつての民衆の十字軍への熱狂は消えており、彼の計画には反対も多かったが、ルイ9世はアフリカ北岸のチュニスに向かった。チュニスに上陸し、イスラーム軍と交戦したが、チフス(または赤痢か)が蔓延、ルイ9世も感染し、1270年8月25日現地で死去した。最期の言葉は「イェルサレム」だったという。

 これが最後の十字軍となり、西アジアにおけるキリスト教勢力は、わずかにアッコンを残すのみとなったが、そのアッコンも1291年にイスラーム教徒に占領され、十字軍時代は完全に終わりを告げた。

 生涯をキリスト教に捧げたルイ9世は、死後27年の1297年にカトリック教会により列聖され、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。皇帝・国王で列聖されたのは、彼ただ一人である。ちなみに、アメリカのセントルイスはSaint-Louisの英語読みである。
 
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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/08/24 16:29 】

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