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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー地獄に堕ちた教皇・ボニファティウス8世

ボニ   
ボニファティウス8世

 ボニファティウス8世は、ルネサンス期に出現する、悪名高いローマ教皇のはじまりとされる。シニカルで精力的で専制的、大向うを唸らせる派手なポーズの大好きなボニファティウスは、ルネサンス型、ボルジア型教皇の先駆であった。

 彼はまた、聖職にある身としてはめずらしいほどの現実主義者であり、また、「最後の審判」は存在しないと信じていた。敬虔な人から悩みを打ち明けられても、「イエス=キリストはわれらと同じただの人間である」と述べ、「自分の身さえ救うことのできなかった男が他人のために何をしてくれようか」と公言してはばからなかったともいわれている

 彼はあらゆる種類の罪悪を一つ一つ丹念に実行した。まず大食の罪。断食の日に6種類しか料理を出さなかったといって料理人を叱責した。つぎに食欲と贅沢の罪。衣服に宝石をいっぱいに縫いつけ、食卓には15本の純金の棒を使っていた。その上かれは迷信家で妖術を信じていた。ナイフの柄に蛇を彫らせ、ポケットに常にエジプト金の円盤を持ち、指には皇子マンフレデイの死屍から奪った指輪をはめていたが、いずれも厄除けのまじないである。賭博も好きで、黄金のさいころを常用し、その性急さで相手を辟易させていた。教皇庁はまるでカジノのようであったという。性的には精力絶倫で、あやしげな男女が毎晩のように教皇の寝所に出入りしたともいわれている。

 だが、この教皇がもっとも渇望していたのは、もちろん権力である。教皇に選出された日、教皇帽を冠るとすぐ、私を地上における神の代理人と認めるかと、なみいる枢機卿に尋ねた。皆がそれを認めると、今度は王冠を冠り抜き身の剣を持って、では私を皇帝と認めるか、と聞いた。人柄が人柄だけに、だれもあえて否とは答えなかった。彼の政治はこのジェスチュアで始まった。

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フィリップ4世

 ボニファティウス8世は教会法学者で古典にも造詣が深く、ローマ大学を創設し、ヴァティカン図書館を拡充するなど行政的才能はあったが、尊大で激情に走りやすく、無思慮な言動のゆえに敵が多かった。教皇権は衰微し始めていたが、その自覚に欠けて事態をさらに悪化させた。

  1296年、フランスのフィリップ4世が戦費をまかなうために教会法に反して聖職者・修道院に課税すると、これを激しく非難したが、結局禁止できなかった。ローマの貴族コロンナ家と争ってその本拠地を焼き払い、所領を奪って一族で分配したこともある。

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サン=ピエトロ大聖堂

 1300年に初めて「聖年(ミレニアム)」を設け、ヨーロッパの全聖職者のローマ巡礼を強制して死後の天国行きを確約した。ローマには多くの巡礼者が集まり、フィリップ2世の教会課税で苦境に陥ったローマ教会の財政は潤いを取り戻したため、教皇の権威があがったかにみえた。

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三部会

 しかし、イギリス王のスコットランド遠征に干渉してイギリス議会の手痛い反撃を受け、フィリップ4世が不遜な言動をとった教皇使節を逮捕・審問したことに抗議したところ、この教書が歪曲されて発表されたことから、フランス国民の反教皇の民族意識を刺激、1302年にフィリップ4世は初めて聖職者・貴族・市民の3身分からなる三部会をノートルダム大聖堂招集して国内の支持を固めた。

 教皇は教書『ウーナム=サンクタム(唯一の聖なるもの)』で教皇権の至上性を主張したが、王は三部会の支持を背景に腹心のレジスト(法曹官僚)ギヨーム=ド=ノガレに命じ教皇の捕縛を命じた。ノガレの両親はかつて異端審問裁判で火刑に処せられていたためローマ教皇庁に対する復讐に燃えていた。いっぽう、教皇の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていたコロンナ家は、フィリップ4世にかくまわれていた。ノガレは、コロンナ家がフランスの法廷で証言した各種の情報をもとに、教皇の失点を列記した一覧表を作成し、これを公表した。

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アナーニ事件 

 1303年9月、ノガレはコロンナ家の一族と結託して、教皇が教皇離宮のあるアナーニに滞在中、同地を襲撃した。ギョーム=ド=ノガレとシアッラ=コロンナは、教皇御座所に侵入し、ボニファティウス8世を「異端者」と面罵して退位を迫り、弾劾の公会議に出席するよう求めた。

 教皇が「余の首を持っていけ」と言い放ってこれを拒否すると、2人は彼の顔を殴り、教皇の三重冠と祭服を奪った。これについては両者の思惑が異なり、シアッラは教皇を亡き者にしようと考えていたが、ノガレは逃れられないよう教皇をつかまえてフランスに連行して会議に出させ、いずれは退任させる腹づもりであった。2人は激しい言い争いになり、それが翌日までつづいたが、そうしている間にローマから駆けつけた教皇の手兵によりボニファティウス8世は救出された。

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ボニファティウス8世の石棺(ヴァティカン)

 教皇の監禁は3日間にわたり、ナポリ王カルロ2世とシチリア王フェデリーコ2世が教皇に対して暴力が振るわれていることを聞きつけて、その救出のための準備をしていたという。ボニファティウス8世は民衆の安堵と大歓声に迎えられてローマへの帰還を果たしたが、辱められた彼はこの事件に動揺し、この年の10月11日、急逝した。68歳という高齢と長年の不摂生で腎臓を患っていたのが死因であるとされているが、人びとはこれを「憤死」と表現した。

 政治的に対立したフィレンツェのダンテの代表作『神曲』では、ボニファティウス8世は地獄に堕ちた教皇として逆さまに生き埋めにされ、燃やされる姿が描かれている
 

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/08/28 05:25 】

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