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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー焼かれた求道者・フス

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アヴィニョン教皇庁

 アナーニ事件の後、1305年に教皇に選出されたクレメンス5世はボルドー大司教でフランス人であったが、彼は政情不安定なローマを避け、1309年以降南フランスのアヴィニョンに教皇座を移転した。以後約70年間教皇座は同地にとどまり、当時の人々はこれをヘブライ人のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」と呼んだ。南仏出身の教皇7名と枢機卿たちの支配するアヴィニョン教皇庁は、財政の確保のために組織の整備と中央集権化に努めた。

 しかし、この事態はまもなくキリスト教社会に混乱と腐敗を生み、しだいにローマへの帰還が望まれるようになる。1377年教皇グレゴリウス11世のとき、ローマ帰還は果たされるが、それはより大きな危機の始まりでもあった。

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クレメンス7世

 ところが翌年、教皇グレゴリウス11世が病没、久しぶりにローマで次の教皇を選出する枢機卿会議が開催された。そこではローマの貴族出身の枢機卿とフランス人枢機卿が激しく対立、なかなか決まらないでいると、業を煮やしたローマ市民がローマ教皇庁に乱入、命の危険を感じたフランス人枢機卿たちは逃げだし、残った枢機卿たちがイタリア人でナポリ出身の大司教をウルバヌス6世として選出した。

  ところが、このウルバヌス6世は厳格な性格で怒りっぽく、戒律を守らない枢機卿たちを激しく叱責したため、この人選を後悔した。フランス人の枢機卿たちはアナーニに集まり、ウルバヌス6世の選出は外部の圧力に屈した結果であり、結果は無効であると声明を出し、改めて選挙をやり直した。その結果、クレメンス7世が選出された。ウルバヌス6世は当然それを認めず、ローマで教皇として居座ったので、クレメンスはフランス人枢機卿と共にフランスのアヴィニヨンに戻ってしまった。

 両教皇はそれぞれ自らの正統を主張し、相互に相手を破門し、ここに西ヨーロッパのキリスト教会は二派に分かれ、教会大分裂(大シスマ)が始まった。

 この分裂は教会の威信をはなはだしく失墜させるものであったため、これを統一しようとの機運が起こり、1409年にピサで開かれた公会議では、両教皇の廃位を宣言して新たにアレクサンデル5世を選出したが、両教皇ともこれを認めず、3教皇が鼎立するにいたって事態はますます混乱した。

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ウィクリフ
 
 ウィクリフはオックスフォード大学で神学・哲学を学び、同大学の神学教授となった。彼は教皇が権力争いによって教会大分裂し、教会や修道院の聖職者も豪奢な生活を送っていることに疑問を感じ、教会とはローマ教皇を頂点とした組織のことではなく、救済を約束された人々の集まりそのものであると主張、信仰の唯一の源泉は神の言葉である聖書にあるとし、聖書によらない一切のカトリックの施設・機関・制度を排除し、否定しようとした。

 すなわち彼は聖餐のパンと葡萄酒とがキリストの血と肉であること、および聖体にキリストが存在することを否定し、ミサの儀式は福音書に記されていないとして退け、教皇およびローマ教会は、それぞれ最高の指導者・最高の教会ではないと主張した。また教会が財産を所有することは聖書に背くものであり、修道士は悪魔の仲間であると罵っているが、これは教会および修道院の俗化を非難するものである。

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 また彼は4福音書を英訳し、伝道者を各地に送って布教に努めた。ウィクリフの影響を受けた信者をロラード派(ロラードとはおしゃべりの意味)といわれ、彼等は貧しい身なりで熱心に農村で説教を行った。ワット=タイラーの乱の時の説教僧ジョン=ボールもそのような一人だった。ワット=タイラーの乱が起きるとウィクリフは直接関係はなかったが1381年にオックスフォード大学を辞任した。

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フス

 ローマ教会は彼を異端として弾劾していたが、生前に裁判にかけられることはなく、1384年に死去した。彼の思想は大陸にも伝えられ、当時神聖ローマ帝国の領邦の一つであったベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)のプラハ大学ではその支持派と反対派が対立し、支持派のフスがさらに教会批判を展開した。フスの主張は、教会とはその霊魂の救済が予定された者のみによって成立し、教皇の権威はローマ皇帝のそれから生まれた邪悪なもので、教会に服従せよというカトリックの説は人為的に捏造されたものであり、両者はいずれも聖書の権威によるものではない、というものであった。

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ドイツ皇帝ジギスムント

 フスは1411年教皇庁により破門されたが屈せず、教会の堕落を攻撃し、ドイツ皇帝ジギスムントの要請により、1414年コンスタンツ公会議が開催されることになった。

 ジギスムントは神聖ローマ皇帝即位前のハンガリー王であったとき、オスマン帝国のバルカン半島への侵出を阻止するために、ヨーロッパのキリスト教諸侯に十字軍の再編を呼びかけ、ドイツやフランスの諸侯の参加を得て、オスマン帝国領に侵攻し、1396年にニコポリスの戦いでバヤジット1世と戦っている。しかし、オスマン帝国の組織的集団戦に対して十字軍の騎士戦法が通じず、敗北を喫した。ジギスムント自身も捕虜になりかけたが辛くも脱出し、ドナウ川から黒海に逃れ、エーゲ海、アドリア海を通ってハンガリーに逃げ帰った。

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 会議は1414年から1418年にわたり45回に及んだが、本来の会議は、長年にわたる教皇座の分裂を調停によって和解させ、解決しようとするものであった。1414年には3教皇が出席を求められ、その他の高位聖職者たちも多数出席し、ドイツ・フランス両国王をはじめとして多数のドイツ諸侯および各国王の使節も参集して、キリスト教世界の一大会議の観があった。まず大分裂の解消では、順次3教皇が退位し、1417年マルティヌス5世が唯一のローマ教皇となり、教会の統一に成功した。また教皇権よりも公会議の決定が優先することも決められた。

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 会議に召還されたフスは自説を主張する機会と考えてそれに応じたが、審問では一切の弁明も許されず、一方的に危険な異端の扇動者であると断じられ、翌1415年7月6日、火刑に処せられた。

 フスは武装した男たちによって火刑の柱に連れて行かれた。処刑の場でも彼はひざまずき、両腕を広げ、声高に祈った。フスの告解を聞いて許しを与えよという人もいたが、司祭は、異端者の告解は聞かないし許しも与えない、と頑固に断った。死刑執行人はフスの衣類を脱がし、両手を後ろ手に縛り、首を柱に結び付け、彼の首の高さまで薪とわらを積み上げた。最後になって、ジギスムントの家臣フォン=パッペンハイム伯は、フスに主張を撤回して命乞いするように勧めた。 しかしフスは「私が、間違った証言者に告発されたような教えを説いていないことは、神が知っておられる。私が書き、教え、広めた神の言葉の真実とともに、私は喜んで死のう」と述べて断った。

 火がつけられると、フスは声を高めて「神よ、そなた生ける神の御子よ、我に慈悲を」と唱えた。これを3回唱え「処女マリアの子よ」と続けた時、風が炎をフスの顔に吹き上げた。そして、フスを悪魔とみなす敬虔な老婆がさらに薪をくべると、“O, Sancta simplicitas”(おぉ、神聖なる単純よ)と叫んだ。彼はなおも口と頭を動かしていたが、やがて息を引き取った。フスの衣類も火にくべられ、遺灰は集められて、近くのライン川に捨てられた。

 すでに死んでいたウィクリフの遺体は掘り出され、改めて火刑に処せられ、遺灰はテムズ川に捨てられた。

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 教会はフスを火刑にした後、さらにプラハ市を破門、プラハ大学を弾圧した。フスの説を支持したプラハ市民はそれに反発して修道院を襲撃、1419年からドイツ皇帝ジギスムントの派遣したドイツ軍との戦争となった。ジギスムントはフス派に対して「十字軍」と称して鎮圧にあたったが、チェック人の農民が広汎に戦争に参加し、民族の自立を目指して戦ったので鎮圧に失敗。しかしフス派内部にも穏健派と急進派(タボル派)の対立があり、最終的にはジギスムントは穏健派と結んで過激派を制圧して、1436年に和平を実現した。教会はフス派の主張の一部を認め、フス派はジギスムントをベーメン王として承認することで妥協が成立した。 

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/09/01 05:32 】

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