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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーイングランド史上最低の国王・ジョン王

ヘンリ2世 
ヘンリ2世

 ノルマン朝のヘンリ1世が1135年に死去すると、男子の後継者がいなかったので、王位継承をめぐり対立が起こり、18年にわたる内乱となった。ヘンリ1世は娘マティルダを後継者に指名していたが、ウィリアム1世の孫に当たるスティーヴンも王位継承権を主張したためであった。最終的には、マティルダとその夫フランスのアンジュー伯ジェフロワの間に生まれたアンリ(フランス名)が、ヘンリ2世(イギリス名)として1154年に即位し、プランタジネット朝を始めた。アンジュー家の家紋が「えにしだ」でそのラテン名が「プランタ=ゲニスタ」というので、後の人がこの王朝を「プランタジネット朝」と呼んだ。

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 ヘンリ2世は、母から引き継いだイングランドとフランスのノルマンディーに加え、父からフランスのアンジュー伯領を相続、さらにフランスのアキテーヌ地方(ギエンヌ)の有力諸侯アキテーヌ伯の娘エリアノール(フランス王ルイ7世と離婚した)と結婚し、アキテーヌ(ギエンヌ)地方を所有することとなった。つまりイギリス王ヘンリ2世はイングランドからフランスのピレネー山脈に至る、英仏海峡をまたぐ広大な領土を支配した(これをアンジュー帝国ともいう)。

  また、ノルマン朝のイギリス王と同じく、イギリス王としてはフランス王と同等であるが、同時にフランス国内の領主としてはフランス王の家臣であるという二重の関係を持った。1156年にはイングランド王ヘンリ2世は、アンジュー伯・ノルマンディー公・アキテーヌ公アンリとして、フランス国王ルイ7世に対して、封建的主従関係にあることをあらわす「臣従礼」を行っている。しかし、当時フランス王のカペー朝の直轄領はパリの周辺だけに限られており、ヘンリ2世のフランス内の領地の方が圧倒的に多いのが実態であった。

 またヘンリ2世はイングランド王と言いながら、実際にはフランスのアンジュー伯領で暮らすことの方が多く、在位35年のうち、イギリスで暮らしたのはわずか13年であった。ヘンリ2世が王妃エリアノールとの間にもうけた子がリチャード1世とジョン王などであったが、彼らにもフランス内の領地が継承されていく。

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リチャード1世(獅子心王)

 リチャード1世は第3回十字軍にフランス王フィリップ2世らとともに参加し、アイユーブ朝のサラディンと渡り合い、その英雄的な戦いから獅子心王といわれた。しかし聖地奪回は出来ず、休戦協定を結んで帰国の途に着いたが、途中地中海で遭難して上陸したところでオーストリア公レオポルドに捕らえられ、さらに神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に身柄を預けられ、多額の身代金で釈放された。その後フランス内の領土をめぐってフィリップ2世と戦い1199年に戦死し、弟のジョンがその跡を継いだ。リチャードの多額の身代金を払ったのは家臣である封建貴族たちであったが、彼らの不満がジョンの時に爆発することになる。

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ジョン王

 父王ヘンリ2世は王妃アリエノールと不仲になり、幼少期に母親からの愛情を受けることが少なかった末子のジョンを最も愛した。1169年、ヘンリ2世はフランス王ルイ7世との協約で、大陸の所領をジョン以外の3人の息子に分割した。当時まだ2歳にもならなかったジョンはその分与から除外され、父ヘンリ2世はジョンに「領地の無いやつ」(John the Lackland)とあだ名をつけ憐れんだ。日本語ではこれを「欠地王」と訳す。領地を大幅に失ったため、「失地王」との日本語表記もあるが、Lacklandの訳語としては正しくない。

 ジョンは生来の嘘つきで、利己的・残虐な性格に加え、思慮にも欠けたため、その治世は失政が多かった。

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 ジョンは兄であるリチャード1世が戦いに明け暮れ、長くイングランドを留守にしたため、イングランド王の勢力を削ごうとするフランス王フィリップ2世にそそのかされて王位簒奪を夢見ていた。本来なら王位につく可能性は少なかったが、リャード1世が戦死してから状況が一変する。

 リチャードは即位当初、弟ジョフロワの遺児アーサーを王太子になぞらえていた。しかしその後、アーサーはフィリップ2世に臣従してフランスの宮廷で育ち、さらにリチャードの臨終時にはまだ12歳であったため、リチャードは最終的に遺言でジョンを後継者に指名した。前王の重臣ヒューバート=ウォルターをはじめとする、フィリップ2世の干渉を憂慮したイングランド国内の諸侯もアーサーを排除し、結局ジョンがイングランド王位を継承した。


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フィリップ2世


 1202年、フランス国王フィリップ2世は、ジョン王のフランス内の所領を奪おうと、彼を結婚問題にかこつけて裁判にかけ、出廷を拒むジョン王から臣下の義務違反の理由で所領を取り上げようとした。ジョン王の結婚問題とは、世継ぎの産まれない前妻を離婚し、アングレーム伯爵家のイザベラ(8歳ぐらいだったという)を強引に妻にした事に対し、イザベラの婚約者がフィリップ2世に訴えことをいう。フィリップ2世は、イングランド王としてジョンの甥アーサーを立てようとしたが、ジョンはアーサーを殺害して王位の保全を図った。

  1203年、フィリップ2世はジョンがイングランドに行っている間にフランス軍をノルマンディー、アンジューなどに侵攻させた。それらの現地の領主層の中にはフランス王に忠誠を誓っていたものも多かったので、ジョン王に従っていた城は次々と陥落し、結局ジョンの封地はロワール川以南だけとなった。

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インノケンティウス3世

 1205年、カンタベリー大司教ヒューバート=ウォルターが亡くなると、修道士達が選んだ候補とイングランド王と司教が推薦した候補とが共にローマへ行き、カンタベリー大司教の座を争ったが、教皇権の強化を狙っていたローマ教皇インノケンティウス3世は両者とも認めず、代わりに枢機卿のラングトンを任命した。ジョンはこれを認めず、これを支持する司教たちを追放して教会領を没収したため、1207年にインノケンティウス3世はイングランドを聖務停止とし、1209年にジョンを破門した。

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  ジョンはこれを無視し、逆に没収した教会領の収入で軍備増強を図ったが、1213年になるとインノケンティウス3世はさらにフランス王のイングランド侵攻を支持し、これに呼応して諸侯の反乱が計画されたため、ジョンはイングランド及びアイルランドを教皇に寄進し教皇の封臣となり、聖ペテロ祭費とは別に年額1000マルクを支払う事を約することにより、破門を解かれた。

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ブーヴィーヌの戦い 

 教皇と和平が結ばれると、ジョンは再び領土回復を計画し、戦費調達のため封建貴族および都市や国民に対する苛斂誅求がまた激しくなった。1214年、フランスに侵攻したジョンは、ブーヴィーヌの戦いに惨敗を喫して帰国した。しかるに本国では、封建貴族は反国王勢力を結集して、ジョンと一戦を交えるべく彼を待ち受けていたのである。

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 1215年1月、封建貴族(バロン)の代表はロンドンのラニミードの野で彼らの要求を突きつけた。同年7月15日、ジョンは彼らの要求に屈服し、「バロンの条項」に署名し、貴族の特権を承認した。

  保身のため「バロンの条項」への合意を余儀なくされたジョンだが、すぐに不服をローマ教皇に訴えて、イノケンティウス3世に無効破棄を宣言してもらうなど反撃に転じ、再び圧政と恣意的重税を行うようになった。これに憤慨した諸侯たちが再び蜂起して、またもジョンとの間で内乱となり、諸侯がフランス王太子ルイに援軍を求めて招聘したことで第1次バロン戦争が勃発。ジョンは一旦ロンドンから撤退してルイの軍隊と戦いを繰り広げたが、そのさ中に赤痢に罹って1216年10月19日に病没した。

 ウィリアム征服王から現在のエリザベス2世にいたる41人のイギリス歴代国王のなかで、ジョンは常に「ワースト1位」の存在である。ジョンが亡くなった直後に聖職者が記した年代記に「無能で、嘘つきで、戦に弱く、卑劣で、かんしゃく持ち」と書かれており、『ロビンフッド』では「悪役」として描かれている。そのためか、イギリス国王で、ジョンを名乗る国王は二度と現れなかった。

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 この「バロンの条項」を基礎にして作成されたのが大憲章(マグナ=カルタ)である。この大憲章は総数63カ条からなる膨大なものであるが、その大部分は封建貴族、すなわちバロンの封建的特権に関するものであった。

 例えばバロンおよび騎士の封土相続料の額が定められ、従軍免除金・国王財政割当援助金は恣ほしいままに彼らに賦課されてはならぬとし、また封土を与えられたことから生ずる当然の義務以上の、過重な奉仕を国王から強制されないと定めて、軍費調達あるいは徴兵のために、ジョンが王権を濫用することを防止せんとするするがごときであり、特に勝利なきフランス遠征を忌避したのであった。また、全ての自由人は同身分のものによる裁判および法律によるのでなければ、みだりに逮捕・監禁・追放されないと定め、ジョンが不当に取り立てたすべての罰金は宥恕されるべきであるとして、ジョンの裁判権濫用を防止せんとしている。

 注意すべきことは、彼ら封建貴族たちが、国王の権力から独立しようとする意図を見せていないことであり、まして彼らは王権を否定しようとするものでもない。むしろ王権の濫用を防止するということは、彼らの利益を守るのと同時に、国王もまた法に従うという原則を確立することによって、イギリス王制の在り方を示唆したのである。この点において大憲章は、イギリス議会主義発展史上の最も重要な、かつ最初の文献であるということができる。

 イギリスは立憲主義の国家であるが、単一の憲法典としては成典化されていない。大憲章は権利請願、権利章典などとともに、イギリス憲法を構成する主要な成文法となっている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/09/04 05:21 】

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