なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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百年戦争の中期には一時フランスが盛り返したが、1400年代に入り、フランス側は内部分裂もあって再びイギリス軍の攻勢が強まった。
フランスではシャルル6世(狂気王)が脳神経疾患が昂じ、その弟オルレアン公ルイと従兄弟のブルゴーニュ公ジャンが権力を競い合った。1407年、ブルゴーニュ公がルイを暗殺したため、「ブルゴーニュ派」(東部・北部が基盤)と「オルレアン・アルマニャック派」(西部・南部が基盤)の内乱となった。
フランスではシャルル6世(狂気王)が脳神経疾患が昂じ、その弟オルレアン公ルイと従兄弟のブルゴーニュ公ジャンが権力を競い合った。1407年、ブルゴーニュ公がルイを暗殺したため、「ブルゴーニュ派」(東部・北部が基盤)と「オルレアン・アルマニャック派」(西部・南部が基盤)の内乱となった。
アザンクールの戦い
1415年8月、フランスの内乱に乗じてイギリスのヘンリ5世が1万の軍勢をノルマンディーに上陸させた。しかし悪疫流行のため軍勢が消耗したため、ヘンリはイギリス領であったカレーへ帰還することを決めたが、カレーの50キロ南のアザンクールでフランス軍が待ち受けていた。イングランド軍の軍勢は度重なる行軍で7000人にまで減少し、フランス軍は少なくともその3倍もの軍勢をそろえていた。しかし、王家から給与を支払われる槍隊と弓隊を機能的に組み合わせたイングランド軍が、領主貴族の提供する旧態依然たる重装騎士を主力としたフランス軍に勝利し、戦況はほぼ確定した。1420年にはパリもブルゴーニュ派に占領されてしまった。
ブルゴーニュ派はイギリスと結び、シャルル6世を担いでその娘カトリーヌとヘンリ5世と結婚させ、シャルル6世の死後はヘンリ5世がフランス王に就くことが約束された。
ところが、1422年8月31日ヘンリ5世は赤痢で死亡してしまう。わずか34歳だった。そして、シャルル6世も10月21日、ヘンリ5世の後を追うように病死した。その結果、ヘンリ6世が生後9カ月でイングランド王、その2カ月後にはフランス王位も継ぐことになった。
シャルル7世
一方、シャルル6世の息子シャルルもアルマニャック派の支持のもとでシャルル7世としてフランス王位を継承することを宣言したが、ブルゴーニュ派はこれを否認し、シャルル7世は正式にフランス王として即位することができなかった。彼はアルマニャック派以外からは相変わらず王太子、あるいは侮蔑的に「ブールジュの王」と呼ばれた。
シャルル7世は母イザボーや重臣までが敗北を見越してイギリス側に内通し、宮廷内は分裂、1428年には最後の城オルレアンも包囲され、事態は絶望的となった。オルレアン市民とアルマニャック派貴族は必死に抵抗を続け、都市を死守する。しかしイングランド軍の攻撃も、またそれ故に一段と激しい。イギリス側の軍勢は数千、フランス側はほぼ1000、ここからしても陥落はもはや時間の問題のようにも思われた。
しかし、奇蹟、現在の私たちにの眼からはまさに奇蹟としか表現できない事態が突如として現れた。史上にその名も高いジャンヌ=ダルクの登場である。
羊飼い娘ジャンヌは1412年頃のある年の1月6日、東部のシャンパーヌ地方とロレーヌ地方の境にあたるドンレミの農家に生まれた。13歳頃のある日曜日のこと、教会の鐘が鳴りやむ頃に、彼女は天使たちの麗しい合唱が響き渡るのを聞いた。そしてそれとともに聖カトリーヌと聖マルグリートを従えた大天使ミカエルの姿が彼女の頭上に現れた。ミカエルは彼女に告げた、「フランスへ行け」、「オルレアンの町を救うべし」と。
神の声は、その後もまますす激しく彼女をせき立てた。1429年、こうして彼女は神のお告げをかたく信じて立ち上がる。王太子シャルルの許可を得、将軍たちとともに兵を従えた彼女は、破竹の勢いで軍を進め、イングランド・ブルゴーニュ同盟軍に致命傷を与えた。
1429年5月8日、ジャンヌ=ダルクの到着後9日間で、7カ月間に及んだオルレアンの囲みはついに解かれた。それは、宗教的信仰と侵入者を打破しようとする熱情に支えられたジャンヌにより、そして彼女の率いるたった200人の軍勢の加勢により、成し遂げられたものであった。東西に流れるロアール川を挟んで、北フランスと南フランスとに分かれていたイングランド勢力を合体しようとしたイギリス側の野望と機会は、ここに永久に消滅した。情勢はまさにこの時から一変したのである。
彼女はさらにランスへと進撃を続けた。ここは代々フランス国王が戴冠式を挙行する由緒ある都市である。1429年7月17日、王太子シャルルの戴冠の儀は、ランス大司教の手により、荘厳なうちにも感動的に執り行われた。まことの国王シャルル7世は、こうしてジャンヌ=ダルクによりフランスに与えられたのである。
しかし、彼女には大きな悲劇が待ちかまえていた。1430年、彼女は不運にもコンピエーニュでブルゴーニュ派に捕らえられてしまう。
当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引き渡しを要求するのが普通だった。ジャンヌの身代金は1万エキュ。シャルル7世は身柄引き渡しに介入せず、彼女を見殺しにした。シャルル7世はジャンヌによって王冠を与えられたにも拘わらす、冷酷にも「小娘一人の命ですめば安いものだ」とうそぶいていたという。母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは、幾度か脱走を試みているが失敗。結局はイングランドが身代金を払って、彼女の身柄を引き取った。
1431年1月9日、パリ大学神学部の要求により、ルーアンでジャンヌの異端審問裁判が開始された。当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛したあとに再び異端の罪を犯した時だけだった。
ジャンヌは改悛の誓願を立てた時に、それまでの男装をやめることにも同意していた。女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた。このような性的暴行から身を守るためと、ドレスが盗まれてほかに着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった。
1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯したとして死刑判決を受けた。
1431年5月30日、ジャンヌの火刑が執行された。場所はルーアンのヴィエ=・マルシェ広場で、高い柱に縛りつけられたジャンヌは、立会人の2人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。
「邪宗、異端、背教者、偶像崇拝者」などと書かれた紙帽子をかぶせられ、処刑台にのぼったジャンヌは、火焔が身体を包むほどになっても、最後まで自分のしたことが神の命令によるものであったことを叫び続けていた。そして大天使ミカエル、聖カトリーヌ、聖マルグリートの名を呼び、「イエス!」の一言とともに、哀れなこの19歳の処女はそのドラマチックな一生を花と散らせたのであった。
そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってセーヌ川へ流された。
ジャンヌ=ダルクの顔だちがどんなであったかは、残念ながらはっきりしない。しかし、体つきは大柄で健康的であり、心は天使のように優しくて繊細であった。戦闘中に1本の矢が彼女の肩に刺さった時、血が流れ滴るのを見て彼女は泣いたという。痛ましくも輝かしい数々の事跡やその他彼女をめぐる多くの事柄は、今もなお謎であり、神秘のヴェールに包まれている。
ジャンヌの痛ましい悲劇を眼のあたりにして、フランスはようやく無気力から立ち上がった。彼女を裁いて死に至らしめたブルゴーニュ派の人々も、自分たちの同盟者が言語や風俗、習慣の違った「外国人」であることをやっと意識するようになった。党派を超えたフランス人としての国民感情が、祖国愛が、ジャンヌの死をきっかけとして、人々の胸にしっかりと抱かれ始めたのだった。アルマニャック派とブルゴーニュ派は、こうして1435年のアラス条約でついに和解する。
翌年、パリは心からフランス国王シャルル7世を迎え入れ、「フランス国民」は一致団結して、ノルマンディー地方から、またギエンヌ地方からイギリス人を追い払った。そして、わずかにカレーだけを残して、1453年ついに百年戦争は終結を告げたのである。
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