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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー塔の中の王子たち・ばら戦争

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ヘンリ6世

 百年戦争終結後間もなく、ランカスター朝のヘンリ6世は精神疾患に陥り、自身の周りで起こっている事を全く認識出来なくなってしまった。これはその後1年間続き、エドワードと名づけられた息子の誕生(10月13日)にも反応出来なかった。

 ヘンリ6世のこの病は、おそらく母方の祖父で、その死の前の30年間にわたって断続的に精神錯乱を起こしたシャルル6世から遺伝していたと考えられる。

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 狂気と敗戦の責任とがこの王家の血統の正統性を疑わせるようになった。エドワード3世の直系は黒太子とその王子の代で絶え、黒太子の弟ランカスター公の血統からヘンリ4世が現王家を建てたのである。

 シェークスピアの『ヘンリ4世』には、臨終の床に王冠を置いて眠っているヘンリ4世のところへ、王子ヘンリ(5世)が忍んできて、王がもう死んだものと思い、その王冠を持ち去る場面がある。目を覚ました王は王冠のないことに気づき、王子を呼んで叱りつける。

 「お前は待ちかねておるのか、まだその時は来ないのに……俺がこの王冠を得るまでには、いろいろ横道へも入り、曲がった間道をも通った。…俺のとしてはそれが暴力で奪った栄誉のように見えた…この王冠を手に入れた手続きをば、神よ、赦させられませ…」というのである。

 つまり、ランカスター家には王位簒奪者の意識があった。

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マーガレット

 狂った夫と幼い王位継承者の我が子を守らなければならなくなった王妃マーガレットが国王支持の貴族たちを束ねた。一方、かねてからランカスター家の王位継承に異議を唱えていたヨーク家のリチャードは事を急がねばならぬと考え、1455年5月、セント=オールバンズで国王を襲撃し、ここにばら戦争が始まった。

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 ばら戦争の名称は、2つの王家の紋章であるヨーク家の白ばら、ランカスター家の赤ばらに由来する。もっとも、ランカスター家の赤ばらの使用は戦争最末期であり、この名称は19世紀の小説家ウォルター=スコットの『ガイアスタインのアン』降に広く用いられるようになった。世界史上最も美しい名前の戦争だが、最も見難い戦争である。

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エドワード4世

 その後、一進一退の内戦を繰り広げ、1460年にはヨーク家リチャードが戦死する。その子エドワードは、有力貴族ウォーリク伯の支援を得て逆襲し、61年にロンドンに入り、貴族たちに推戴されて王位につきヨーク朝が成立、エドワード4世となった。敗れたヘンリ6世とマーガレットはスコットランドに逃れた。

 前国王である夫のヘンリ6世をスコットランドにおいて、フランスに渡ったマーガレットはルイ11世に支援を要請、またエドワード4世と仲違いしたウォーリク伯を味方にして、1470年にイングランドに上陸、虚をつかれたエドワードはブルゴーニュ公シャルルを頼ってネーデルラントに逃れた。

 マーガレットはヘンリ6世を復位させたが、1471年3月エドワードがルイ11世と対立していたブルゴーニュ公の援軍を得て戻ってくると、国内の貴族とロンドン市民の支持を受けてヘンリ6世を再び捕らえ、ロンドン塔に幽閉した。

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バーネットの戦い

 ランカスター政権が瓦解した後、その支持勢力はヨーク派に各個撃破され、バーネットの戦いでウォーリク伯はエドワード4世に敗れ戦死、続いてイングランドへ到着したマーガレットらランカスター派はテュークスベリーの戦いでヨーク派と衝突、ヨーク派は決定的な勝利を収め、エドワード皇太子は殺された。他のランカスター派の蜂起も鎮圧され、マーガレットは数年間捕虜となった後にフランスへ送られ、ランカスター家とその勢力はほぼ壊滅した。ロンドン塔に幽閉されていたヘンリ6世は、1471年5月21日あるいは22日に49歳で亡くなっている。

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リチャード3世

 1483年、エドワード4世が死に長子エドワード5世が12歳で王位を継承したが、その前に立ちはだかったのが叔父の護国卿グロスター公リチャードである。せむしでびっこの凄まじい権力欲の持ち主であったリチャードは、エドワード5世と弟のリチャードをロンドン塔に幽閉し、王位を簒奪した。それがリチャード3世で、シェークスピアの『リチャード3世』の主人公として、暴君として描かれている。

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 ロンドン塔に幽閉された後のエドワード5世と弟リチャードの消息は、現在に至るまで判明していない。 1483年の夏ごろまではロンドン塔の庭で遊ぶ兄弟の姿が見られたが、次第にその姿を見ることは少なくなり、1484年の春には兄弟は既に殺されたという噂が市内に広く囁かれるようになったと『ロンドン年代記』(1512年頃)にある。

 当時は2人の兄弟を殺害したのはリチャード3世と考えられていたが、現在の研究ではヘンリ7世が2人の運命に深く関わったとする説も有力である。事の真相ははっきりしないが、リチャード3世だけでなく、ヘンリ7世にとっても2人の兄弟は邪魔な存在であったことだけは確かである。

 1674年、ロンドン塔の改修に携わった作業員が、子供の遺骨とみられる大小の頭蓋骨や骨片が入った木箱を発見した。初めは放置されたが、1678年にウェストミンスター寺院に安置された]。1933年、専門家によってその遺骨が鑑定されたが、性別・年齢が特定されることはなかった。
 
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ヘンリ7世

 リチャード3世の王位簒奪と残虐な行いに反発した貴族は、ランカスター家の縁者でブルターニュに亡命していたテューダー家のヘンリが1485年にイングランドに上陸すると、一斉にそれを支持した。

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 ボズワースの戦い

 ヘンリはウェールズの軍勢などを兵力として、8月にボズワースの戦いでリチャード3世を破り、ヘンリ7世として王位について、新たにテューダー朝を開いた。

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エリザベス

 ヘンリ7世は翌年、ヨーク家のエリザベスと正式に結婚し、ここにばら戦争は終わりを告げた。

 二人の結婚により2つのばらはめでたく合併したが、両陣営に分かれて乱世を泳いでいた大貴族たちは自滅の道をたどり、世は絶対主義へと進んでいったのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/09/15 05:43 】

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