なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ムハンマドは614年頃から富と権力を人生の理想と考えるメッカの人々に唯一神アッラーの恩寵の深さを説き、最後の審判に備えるよう警告を発するようになった。しかし、メッカの人々、特に保守的な大商人層は、古来の部族神信仰を否定するムハンマドを迫害し、ハーシム家との商取引をボイコットするなどの報復を行った。
622年、ムハンマドは、ヤスリブの住民からアラブ部族間の調停者として招かれた。これをきっかけに、ムハンマドはメッカからの脱出を決意する。この脱出計画はクライシュ族の追及を恐れて秘密のうちに進められた。およそ70名のムスリム(イスラーム教の信者)が先にヤスリブに到着するのを見届けてから、ムハンマドとアブー=バクルは深夜メッカを抜け出し、3日間途中の洞穴に身を隠した後、9月24日無事ヤスリブのオアシスに到着した。
この事件をヒジュラ(元来移住という意味だが聖遷や遷都と訳されることが多い)と言うが、イスラーム暦ではヒジュラが行われた日(西暦では622年7月16日)を紀元元年の1月1日としている。
イスラーム暦(ヒジュラ暦)は純粋太陰暦で、奇数の月は30日、偶数の月は29日で、1年は354日となる。30年間に11回の閏年(355日)を入れるので、太陽暦とでは1年につき約11日の差が出てしまう。だから、イスラーム世界は西暦2019年8月31日の日の出とともに、1441年を迎えるのだが、622+1441=2063で、2019にはならない。
預言者のモスク
ヒジュラの後、ヤスリブは「預言者の町」の意味でマディーナ・アン=ナビーと改められた。日本ではメディナと呼んでいるが、正しい略称はマディーナである。メディナにおいてムハンマドとその信者の共同体(ウンマ)が形成され、信仰によって結ばれた戦闘力を持つようになった。ムハンマドは自らをモーゼやキリストと並ぶ預言者と称し、メディナのユダヤ教徒との間で協定(メディナ憲章)を結んだが、ユダヤ教徒の中にはムハンマドを預言者と認めないものもあったため、結局ムハンマドはメディナからユダヤ教徒を追放した。
ムハンマドはメッカ征服後もメディナに住み続け、その遺体はメディナに葬られた。彼の自宅跡と墓所に建てられたのが「預言者のモスク」で、イスラーム教第2の聖地となっている。また、656年にアリーがイラクのクーファに都を遷すまで、メディナはイスラーム世界の政治的な中心地でもあった。
624年3月、ムハンマドはメディナの南西の水場バドルで、ムスリムの少数の戦士を率いてメッカのクライシュ族の隊商を襲撃し、戦利品と捕虜を獲得した。このバドルの戦いは、ムハンマドの最初の勝利であり、神の加護による勝利を導いたムハンマドの預言者、「神の使徒」としての権威が確立した。
メッカのクライシュ族は反撃を試み、翌年3月に3000の軍勢でメディナに進撃し、ウフドの戦いで700のメディナ軍を破った。次いで627年、メッカ軍は7500の大軍とユダヤ教徒の協力を得て、メディナに対する総攻撃を行った。しかし、塹壕を築いて防衛にあたったムハンマドの率いるムスリム軍の前に、メッカ軍の遠征は失敗に終わった。
カーバ神殿
630年1月、ムハンマドは1万ものムスリム軍を率いてメッカに向かった。このメッカ征服は、クライシュ族が戦意を喪失したために、ほとんど無抵抗で入城を成功させた。ムハンマドはカーバ神殿の中に奉られていた数多くの偶像を打ち壊した。しかし、神殿そのものは、「私(神)は、人々の集会所として、また安全な場所として、この家(カーバ)をつくったのだ」として、これをイスラームにとっても聖なる場所とみなした。これ以降、ムスリムの礼拝の方向はイェルサレムからメッカに変更されることになった。
偶像崇拝を否定するムハンマドはカーバ神殿の周辺の偶像を破壊したが、唯一この黒石の塗り込められた壁だけを残し、イスラームの聖所とした。現在は東南描く側の角の壁にはめこまれている。黒石の直径はおよそ30㎝で、恐らく隕石だと考えられている。
メッカに巡礼するムスリムたちの最終目的地であり、メッカ巡礼に訪れたムスリムは、王侯でも貧者でも同じ縫い目のない白布に身を包み、カーバ神殿の廻りを反時計回りで7回まわり、可能ならば7度黒石に接吻する。 なお、現在もメッカとメディナはイスラーム教徒でなければ入れないので、信仰の無いものはカーバ神殿も黒石の実物も見ることはできない。
カーバ創建以来巡礼者に触れられ、摩耗してしまった黒石は、現在金属カバーと、さらに樹脂で保護されている。
メッカ巡礼
メッカ征服後、ムハンマドはなお不穏な動きを示すアラブ遊牧民と戦ってから、メディナにもどった。メッカの征服者、預言者としてのムハンマドの名声は、アラビア半島のすみずみまで行きわたるようになった。各地のアラブ部族や氏族、あるいはその一部の者は、メディナに使節を送り、ある者はイスラームを受け入れ、またある者は税の納入だけを約束して、ムハンマドとの盟約を取り結んだ。半島の全域におよぶ盟約の締結によって、メディナの共同体(ウンマ)を中心とする原初的なイスラーム国家は、ようやくその姿をはっきりと現し始めたといえよう。
しかし、政治上の輝かしい成果にもかかわらず、ムハンマドの家庭生活は必ずしも幸福であったとはいえないようである。生涯のうちに10名以上の女性と結婚したが、その多くは、戦争で夫を亡くした寡婦を養うためであったり、預言者と部族との絆を教化するためであったりした。ムハンマドの従姉妹、つまり父の姉妹の娘ザイナブと結婚した時には、彼女の元の夫がムハンマドの養子であったことから、信者たちからも、これは近親相姦ではないかと非難される一幕もあった。また、嫉妬にかられた妻たちの争いを静めるのに、少なからぬ苦労も強いられたらし。ハディージャ亡き後、心を許すことのできる妻は、長年連れ添ってきたアーイシャ(初代カリフであるアブー=バクルの娘)1人だけであったのかも知れない。
メッカ征服を果たしたムハンマドは、すでに60歳を越え、体力の衰えを感じはじめていた。ヒジュラ暦10年の巡礼月(632年3月)、ムハンマドは最後のメッカ巡礼をおこなった。これを「別離の巡礼」という。これまでムハンマドがおこなった巡礼は。いずれも巡礼月以外のムラウ(小巡礼)であり、正式のハッジ(大巡礼)はこれが初めてであった。すべての妻と4万人あまりのムスリムが同行し、この時ムハンマドがおこなった巡礼の仕方にならった、現在までつづく巡礼の作法が定められた。
メッカ巡礼から戻ったムハンマドは、急に健康の衰えが目立つようになり、メディナ郊外への墓参の帰り道、激しい頭痛に襲われてアーイシャの部屋にかつぎこまれた。一時は礼拝の指揮をとるまでに回復したが、ヒジュラ暦11年ラビー1月(第3月)13日(632年6月8日)の朝になると容態が急変し、アーイシャの胸に抱かれたまま静かに息を引き取った。『預言者伝』の著者イブン=イスハークによれば、「いや、天国から至高の友(天使)がやってくる」というのが、最後の言葉であったという。
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