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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーシーア派の成立

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 632年のムハンマドの突然の死により、イスラーム教団は分裂の危機に瀕したが、その友人であり義父にもあたるアブー=バクルが「神の使徒の後継者」として初代カリフに選出されたことにより、教団の分裂は辛うじて回避された。634年には、やはりムハンマドの義父であるウマルが第2代カリフに選出された。ウマルはジハード(聖戦)を展開し勢力を拡大、シリア・エジプト・イランを征服する。

 644年、第3代カリフとなったウスマーンはムハンマドの教えとして伝えられたことがらを整理、統一する必要を感じ、『コーラン』としてまとめる編纂事業を開始した。現在見るコーランはこのとき原型が作られた。征服活動が一段落したこの時代は、前代のウマルの時に戦利品の分配方式から俸給(アター)に切り換えられたことや、ウスマーンがウマイヤ家の出身者を優遇したことなどから、イスラーム国家の最前線であるイラクのクーファやバスラ、エジプトのフスタートに駐屯する戦士は不満をつのらせていた。

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伝『血染めのコーラン』

 656年、不満の限界に達した戦士たちはメディナのカリフ邸に押しかけ、コーランを読誦中のウスマーンを襲撃し殺害してしまった。ウスマーンが暗殺されたとき読誦していた『コーラン』は、現在もイスタンブルのトプカプ宮殿に『血染めのコーラン』として陳列されているという。

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アリーの就任

 第4代カリフには混乱の中でハーシム家出身のアリーが選出されたが、もともとムハンマドには敵対していたメッカの大商人ウマイヤ家の出身であったウスマーンの暗殺は、アリーが黒幕ではないかとの疑いがかけられた。ウスマーンを支持した人々はムハンマドの未亡人であり、アブー=バクルの娘でもあるアーイシャを担ぎ出し、同年12月、両勢力はバスラ郊外で衝突し、第1次内乱が始まった。

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ラクダの戦い

 アーイシャは、「きっとウスマーンの血の復讐をとげてみせよう」と決意を表明し、自らラクダに乗って出陣した。そこからこの戦闘は「ラクダの戦い」と呼ばれている。結局敗れたアーイシャは丁重にメディナに護送され、それ以後は「信者の母」としてムハンマドの言行を語り伝えながら、静かに余生を送ったという。

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 ウマイヤ家のウスマーンが殺害された後、その家長の地位を継承したのはシリア総督のムアーウィヤであった。シリアのアラブ戦士はムアーウィヤへの忠誠を固く守り、ウスマーン殺害後の復讐を誓いあっていた。アリーはムアーウィヤに書簡を送り、カリフへの忠誠の誓いを求めたが、ムアーウィヤはこれをにべもなくはねつけた。これに激怒したアリーはシリアへと軍を進め、657年7月、双方の軍はユーフラテス川上流のスィッフィーンで衝突した。

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スィッフィーンの戦い

 戦いははじめアリーの軍に有利に展開したが、ここでムアーウィヤ軍の一武将が奇策を思いついた。彼は槍先に『コーラン』を掲げ、アリー軍に武力による決着を中止するよう提案した。「錦の御旗」の効果は絶大であり、アリーは軍を引いた上で、話し合いに応ずることを決定した。

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アリーの殉教

 この『コーラン』による裁定に不満な戦士の一部は、「裁定は神にのみあり」として話し合いによる決着を否定してアリーの陣営を離脱した。これをハワーリジュ派(離脱者たち、の意味)と呼ばれ、妥協の産物のカリフ・アリーを激しく非難した。アリーはハワーリジュ派の殲滅を試みたが、逆に661年1月、クーファのモスク近くでハワーリジュ派の刺客の手にかかり暗殺された。これによって第1次内乱は終結したが、同時に正統カリフ時代も終わった。

 アリーが暗殺されたことによってただ一人カリフとして残ったダマスクスのムアーウィヤがイスラーム世界の統治者となった。その地位はウマイヤ家に世襲されることとなり、ウマイヤ朝が開始されるが、それを認めずに、「アリーが友とする者を自らの友とする」ことを誓い、あくまでも預言者ムハンマドの従弟アリーへの忠誠を守りぬいた人々があった。彼らを「アリーの党派」(シーア・アリー)といい、のちに一般化する「シーア派」はこの「アリー」を省略した呼称である。

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シーア派指導者ホメイニ(1902~1989年)

 アリーの子孫のみをイスラームの指導者(イマーム)であるとするシーア派と、ウマイヤ家のカリフを認めるスンナ派が対立するようになり、イスラーム世界は二分されることとなる。

 アリーにはファーティマとの間に生まれたハサンとフサインの二人の息子があった。アリーがハワーリジュ派の凶刃に斃れると、シーア派の人々はその長子ハサンに望みを托した。しかし、ハサンには、彼らの要求に応え、ムアーウィアから政権を奪い返そうという野心はまったくなかった。ハサンはカリフ位を放棄するするかわりに、ムアーウィアから巨額の報酬と年金を受け取る道を選び、メディナに隠棲して気ままな一生を送った。その享楽的生活は、45歳で没するまでに100回以上の結婚と離婚を繰り返し、「離婚の達人」(ミトラーク)と渾名されたことによく示されている。

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カルバラーのモスク

 一方、弟のフアインもムアーウィアの治世中は、兄と同じくメディナでひっそりと暮らしていた。しかし、680年にムアーウィアが没し、息子のヤズィードがカリフ位を継承すると、フサインはこれを拒否する態度を公し、この機会にメディナからメッカへと居を移した。同年9月、フサインは武装した約70名の一族郎党と女・子供を率いて密かにメッカを抜け出した。しかし、メッカを出て幾日もしないうちに、偵察のために送り込んだムスリム殺害の報がもたらされた。さらにクーファからやってきた詩人のファラズダクは、フサインに向かって「イラクの人々の心はあなたと共にあるが、しかし彼らの剣はウマイヤ家と共にある」という不吉な言葉を残して立ち去った。しかし、ヤズィードのカリフ位を否定し、すでにメッカを脱出したフサインには、クーファの人々を信じて先に進むより他に道はなかった。

 これより先、クーファの不穏な動きを事前に察知したヤズィードは、ウバイド=アッラーフをクーファ総督に任じて、シーア派ムスリムの運動弾圧に乗り出した。クーファの民は新総督に動きを封じられ、再三にわたって勧誘しておきながら、結局、フサインに呼応して決起することができなかった。ウバイド=アッラーフは、4000の兵力を動員し、ユーフラテス川の西岸、クーファ西北部のカルバラーに布陣してフサインの到着を待ちかまえていた。

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カルバラーの悲劇

 両者の戦いは、ヒジュラ暦61年ムハッラム月10日(西暦680年10月10日)に行われた。70余名のフサイン軍と4000のウマイヤ朝軍では、勝負の結果ははじめから明らかであった。しかもユーフラテス川への道を断たれたフサイン軍はひどい渇きに苦しんでいた。朝からはじまった戦いは昼過ぎには終わり、女・子供を残して、フサインとその従者は全員が殺された。

 フサインの首級はダマスクスへ送られ、首実検がすんでから40日後にカルバラーへ戻された。その遺体はフサインの血を吸った戦場に葬られ、やがてそこにはモスクが建ち、シーア派の人々がお参りする聖なる墓所として現在に伝えられている。 

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アーシューラーの哀悼祭

 預言者の血をひくフサインの悲壮な殉教は、多くのシーア派ムスリムにある種の原罪感を植えつけるのに十分な事件であった。自ら誘っておきながら、どうして決起することができなかったのか。彼らにとっては、どんなに悔やんでも悔やみきれない背信行為として心の底に刻みこまれた。いっぽう、スンナ派カリフに対する復讐の念は、やがて王朝末期の反ウマイヤ家運動として実を結ぶことになる。

 フサインの殉教を悔やむ人々は、やがてその殉教の日(ヒジュラ暦のムハッラム月10日)、つまりアーシューラーの日が来ると、その死を悼んで哀悼祭を催すようになった。

アーシュラー 

 現地のカルバラーやシーア派の国イランでは、鎖で背中を打ち、ナイフで額を割る荒行も行われる。また、渇きに苦しみながら、ウマイヤ朝騎士の刃に斃れるフサインの殉教を再現する演劇も各地で催されてきた。少数派のシーア派ムスリムにとっては、歴史をこえてフサインの無念を思いおこし、同胞意識をさらに高める年中行事となっているのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/10/02 05:23 】

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