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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー知られざるイスラームの英雄・バイバルス

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バイバルス

 アイユーブ朝スルタンのトゥーラーンシャーは、フランス王ルイ9世の起こした第6回十字軍を撃退し、ルイ9世自身を捕虜にするという成功を収めたが、その戦いの主力となったマムルーク軍を次々と逮捕・投獄してその勢力の削減をはかった。これに対してマムルーク(奴隷兵士)も、バイバルスを中心にして密かにスルタンの暗殺計画を練り上げていた。

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マンスーラの戦い

 バイバルスは南ロシアの草原の遊牧民クマン族の人であったが、モンゴルの侵入の混乱で奴隷として売られ、アイユーブ朝のスルタン・サーリフに買われてそのマムルークとなった。マムルーク部隊の中で頭角を現してスルタンの親衛隊隊長となり、1250年2月のマンスーラの戦いでルイ9世を捕虜にする功績を挙げ、マムルークのリーダーとなった。

 1250年5月、トゥーラーンシャーはマムルークの武将たちに襲われ、上着についた火を消すためにナイル川へ飛び込んで溺死してしまった。これが、サラディンから80年にわたって続いたアイユーブ朝の終焉であった。

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ローダ島でくつろぐシャジャル=アッドゥッル

 トゥーラーンシャーを殺害したマムルークは、アイユーブ朝の権威を利用しようとし、トゥーラーンシャーの父スルタン・サーリフの妻シャジャル=アッドゥッルをスルタンに推戴した。西アジアにおける最初の女性スルタンの誕生である。彼女のスルタン位就任によって、エジプトにトルコ人奴隷兵を基板とするマムルーク政権が成立した。

 シャジャル=アッドゥッルはかつてはアッバース朝最後のカリフ・ムスタースィムの宮廷に買われた女奴隷であった。シャジャル=アッドゥッルとは、アラビア語で「真珠の樹」を意味するが、むろんこれは本名ではなく、カリフから与えられた妻妾としての名前である。出自はトルコ人ともアルメニア人とも言われる。

 即位後、彼女はルイ9世以下十字軍捕虜の釈放問題について十字軍側と粘り強い協議を続け、結局80万ディーナールの身代金と引き替えに、すべての十字軍捕虜を解放することで決着をつけた。美しい美貌に加えて、マムルーク騎士を統率し、外交問題をこなす政治的な手腕を備えていたのであろう。

 しかし、女性スルタンの登場はイスラーム世界にさまざまな波紋を引き起こしたため、シャジャル=アッドゥッルは同年7月、マムルーク出身のアイバクと結婚し、スルタン位を夫に譲り渡した。彼女がエジプトの王位にあったのは、わずか80日間に過ぎなかった。

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フラグの西征開始

 しかし、アイバクが第2代スルタンに就任すると、アラブ遊牧民が「よそ者の奴隷」の支配に服することは出来ないと反乱を起こした。この反乱は鎮圧されたが、そんな時、モンゴル帝国のフラグの西アジア遠征軍が姿を現し、大きな脅威となり始めた。

 1253年、1万2000の前衛隊を率いて西征を開始したフラグは、まずイランのイスマーイール派の討伐に向かった。1256年、イスマーイール派の教主がアラムート山城を出て降伏すると、フラグは高らかな勝利宣言をイスラーム諸国に送付したのである。

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モンゴル軍によるバグダード攻略

 1258年1月、東西からバグダードを包囲したモンゴル軍は、投石機を用いて総攻撃を開始し、20日間にわたる間断ない攻撃の後、2月10日、ついにカリフ・ムスタースィムはフラグの前に投稿した。カリフは、貴人を殺す時には血を流さないというモンゴルの習慣にしたがって、皮袋に入れられ、軍馬に踏みつけられて殺害された。ムスタースィムの死によって、600年余りにわたって続いてきたカリフ制度に終止符が打たれたのである。

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 バグダードを攻略したフラグは、当初の征服計画にしたがって、イラクからシリアへと軍を進めた。ユーフラテス川を渡ったモンゴル軍は、1260年1月、シリア北部のアレッポを陥落させ、男子を虐殺した後、およそ10万の婦女を子供を捕虜として奴隷商人に売り払った。

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アレッポの城塞

 モンケはさらにダマスクスも陥落させたが、この時フラグのもとに兄モンケの死を知らせる手紙が届けられた。モンケは次のハーンを選ぶクリルタイに出席すべく、後事を将軍キトプカ=ノヤンに托して帰国した。キトプカはダマスクスからさらに南へと軍を進め、その先遣部隊はエジプト国境に近いガザまで進出した。

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アイン・ジャールートの戦い

 モンゴルはカイロに使節団を派遣し、無条件降伏を促した。マムルーク朝第4代スルタン・クトズは使節団の全員を処刑し、エジプト軍に戦闘準備に入ることを命令した。1260年9月3日早朝、両軍はヨルダン川西方の小村アイン・ジャールートで激突。エジプト軍はバイバルス率いるマムルーク軍の活躍によって、夕方には敵の総司令官キトプカを殺害し、モンゴル軍に壊滅的な打撃を与えて敗走させた。

アイン・ジャールートの戦いは、ムスリム軍にとってはイスラーム世界の砦を守り抜いた輝かしい勝利の戦いであり、逆にモンゴル軍にとっては東西の征服戦争で初めて味わう苦い敗戦であった。

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バイバルス

 この戦いの後、バイバルスとクトズは対立し、バイバルスはエジプトに凱旋する直前のクトズを殺害し、自らマムルーク朝第5代スルタンに就任した。バイバルスは、この時およそ33歳であった。1260年9月、カイロの城塞に入ったバイバルスは、アミールたちからの臣従の誓いを受け、武人のスルタンにふさわしく「勝利の応」(マリク・アッザーヒル)と称した。


 1261年5月、バグダードで殺害されたアッバース朝の最後のカリフ(ムスタースィム)の叔父と自称する人物がダマスクスに逃れてきた。バイバルスはその人物をカイロに招き、裁判官や学者に調べさせた上で、この人物を新カリフ・ムスタンスィルとして擁立することを決めた。数週間後、バイバルスは新カリフを伴ってカイロ市中の広場へ赴き、アッバース家を象徴する黒色のターバンと紫色のガウンをカリフから授けられた。これによってバイバルスはカリフの代理のスルタンとしてイスラーム世界に承認されたことになる。

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 ハーキム 

  さらにバイバルスはバグダードでカリフ制度を再建する口実で、新カリフをモンゴル占領下のバグダードに送り出した。ところがその護衛兵士はわずか300騎だけであったので、新カリフはユーフラテス川を渡ったところでモンゴル軍に捕らえられ、殺されてしまった。バグダードにカリフ政権が復活するとバイバルスの権力は危うくなると考えた措置であろう。

 新しく擁立されたカリフ・ハーキムはカイロ市民と接触することは禁じられるというまったく「道具」として存在するだけであった。それでもカイロのカリフはオスマン帝国に征服される1517年まで240年にわたって続くことになる。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/10/09 05:40 】

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