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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーウマル=ハイヤームと2人のハサン・セルジューク朝

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 946年、アッバース朝の都バグダードは、シーア派を奉ずるブワイフ朝に占領され、ブワイフ朝の君主はカリフから大アミールの称号を与えられ、実権を掌握した。しかし、その統治は安定にはほど遠い状態で、大アミールはバグダードの治安を維持することすら出来ず、時代は混沌とした様相を呈していた。

 バグダードがこのような混乱状態にあった時、セルジューク族が西進して首都を目指しているとの報が伝えられた。セルジューク族はもとはオグズ族といわれるトルコ系民族で、アラル海に注ぐシル川の下流(現在のカザフスタン)から勃興し、スンナ派イスラームを信奉していた。

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トゥグリル=ベク(トルクメニスタン紙幣)

 カリフを取り巻くウラマー(知識人)は、これをカリフ権回復のための絶好の機会と考えた。この期待に応えるかのように、セルジューク家のトゥグリル=ベク(「鷹の王」の意味)は、1038年にイラン東部のニシャプールでセルジューク朝の建国を宣言し、1055年12月にはカリフに迎えられてバグダードに入城した。

 バグダードに入城したトゥグリル=ベクはカリフからスルタンの称号を授けられ、以後スンナ派の諸王朝では世俗的・軍事的な権力者としてスルタンの称号が一般化する。

 バグダードのウラマーたちが期待したように、このとき形の上ではシーア派の大アミールにかわって、スンナ派のスルタンによる統治が実現した。しかし、スルタンの保護下におかれたカリフは、実権をもつスルタンにイスラーム法執行の権限を委ね、みずからは「スンナ派ムスリムの象徴」としての弱い立場に甘んじなければならなかった。

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アルプ=アルスラーン

 トゥグリル=ベグの死後、スルタン位継承をめぐる同族争いが勃発した。これに勝利したのが甥のアルプ=アルスラーン(「ライオンのごとき英雄」の意味)であった。 アルプ=アルスラーンは小アジア(アナトリア)に進出し、1071年、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国軍を破り、皇帝ロマノス4世を捕虜とした。

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マンジケルトの戦い

 8月19日の決戦の日、幕僚たちに裏切られたロマノス帝は、あくまでも勇敢に戦い抜いたが、馬は殺され、みずからも傷つくありさまで、ついには囚われの身をアルプ=アルスラーンの前に引き立てられた。スルタンは敗軍の将を手厚くもてなした。それがひとたび釈放されると、ビザンツ帝国の連中は、政治的な憎悪心に駆られて、皇帝の両眼をくりぬいてしまったという。

 この戦い以降、小アジアのトルコ化が進み、ビザンツ帝国にとって大きな脅威となり、皇帝アレクシオス1世は教皇に救援軍を要請した。これを機に200年に及ぶ十字軍の遠征が始まることになる。

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ニザーム=アルムルク

 アルプ=アルスラーンには少年時代からハサン=イブン=アリーというイラン人の学者が傅役(アター=ベグ)としてつけられていたが、スルタンとなったアルスラーンは彼を宰相に任じ、ニザーム=アルムルク(「国家の柱石」の意味)の称号を与えた。

 彼はバグダード、ニシャプールなどの諸都市に自らの名を冠したニザーミーヤ学院(マドラサ)を建設した。これはイスマーイール派の活発な布教活動に対抗して、スンナ派の神学や法学を振興し、有能な官吏を養成することが目的であった。

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マリク=シャー

 1072年、アルスラーンの急死を受けて、王子マリク=シャーが即位した。新スルタンはまだ17歳。宰相ニザーム=アルムルクを「師父」と呼び、絶大な信頼を置いた。マリク=シャーは狩りを偏愛し、朝から夜まで野山を駆け巡っていた。だから、帝国はすべて宰相の掌握するところとなり、この偉大な宰相のもとでセルジューク朝は最盛期を現出したのである。

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サマルカンドのウルグ=ベク=マドラサ

 11世紀の初め頃、イランのニシャプールに一つのマドラサがあった。まだセルジューク朝が建国される前のことである。この学院で仲のいい3人の少年がイスラーム諸学の修得に励んでいた。名前をハサン、ハサン=サッバーフ、ウマル=ハイヤームといった。彼らはこの学院で誓いを結び、将来、幸運に恵まれた者が、他の二人の面倒をみることにしようと約束した。

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ウマル=ハイヤーム

 3人のうち、もっとも早く出世したのは政治に身を投じたハサン、すなわち宰相ニザーム=アルムルクであった。彼は宰相に就任すると、昔の約束を思い出し、ウマル=ハイヤームにはニシャプールとその近郊の管理を任せようと提案した。しかし、生来おとなしい性格で、哲学の思索にふけり、数学や天文学の研究を好むウマルには、政治がからむ地方統治に手をそめる気持ちはなかった。彼は土地のかわりに年金だけの受け取りをニザーム=アルムルクに求めた。

 ただし、これはラシード=ウッディーンの『集史』に記された伝説であり、現実のウマルはマリク=シャーの宮廷に登用される。彼はメルヴの天文台で暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。ジャラリー暦は33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであった。

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『ルバイヤート』

 また、ウマル=ハイヤームは人生のはかなさを歌い、イスラームの道徳に挑戦したイラン文学の傑作『ルバイヤート』(四行詩集)を残し、83歳で亡くなっている。

 一方、野心家のハサン=サッバーフはセルジューク朝の宮廷に仕えることを希望したので、ニザーム=アルムルクはこの望みをすぐにかなえてやった。しかし宮廷での旧友の権勢をねたんだハサン=サッバーフは、スルタンに財政調査の必要を説き、自らこの役を買ってでた。しかし密かに手をまわしたニザーム=アルムルクは、このもくろみを失敗に終わらせ、ハサンを宮廷から追放した。

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アラムートの山城

 イランを後にしたハサン=サッバーフは、1078年、イスマーイール派の宣教員としてファーティマ朝治下のカイロへ赴いた。エジプトから帰国すると、イラン北部の険しい山岳地帯にあるアラムート(「鷹の巣」の意味)の山城によって勢力を拡大し、各地に暗殺者を送りこんでスンナ派の要人を暗殺した。

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ニザーム=アルムルクの暗殺

 その最初の犠牲者がニザーム=アルムルクであった。ニザーム=アルムルクはスルタンの後継問題から、マリクの妃テルケン=ハトゥンの遣わした刺客により、1092年10月14日に暗殺された。

 マリク=シャーはその死を知って悲しんだが、同年に無理を押して出陣を強行し、陣中で病に倒れてニザームの後を追うように37歳で急死した。ニザーム=アルムルク殺害からわずか1カ月、11月19日のことであった。マリク=シャーの死後、セルジューク朝の衰退が始まる。

 十字軍の騎士たちもこの一派の行動に恐れをいだき、「山の長老」ハサンは若者たちに大麻(ハシーシュ)を吸わせた上で、彼らを刺客として送り出すという伝説をヨーロッパに広めた。英語の「アサッシン」(暗殺者)は、「大麻を吸う者たち」を意味するアラビア語「ハシーシーユーン」に由来している。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/10/06 05:39 】

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