なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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イブン=シーナーは980年に中央アジアのサーマーン朝が治めるブハラ近郊で生まれた。幼いころからコーランを学び、10歳ですでにコーランを暗誦することが出来たという。15歳のとき独学でアリストテレスの『形而上学』に取り組み、40回読み返し、ほとんど暗記してしまった。しかしそれでも理解できなかった。絶望して「この本を理解する手だてはない」と自分自身に言って諦めかけた、そんなとき、ブハラのバザールで一人の商人に一冊の本を買わないかとすすめられた。買ってみるとそれは『形而上学』の注釈書だった。家に帰って急いで読んでみると、それまで難解で判らなかったところが理解できるようになった。うれしくなって翌日、神に祈り、貧しい人々に多くの施しをしたという。
その後、キリスト教徒の医学者サフル=アル=マスィーヒーに師事し、自然学、形而上学、医学を学び、16歳の時にはすでに患者を診療していたと言われる。サーマーン朝の宮廷の侍医として仕えていたが、999年サーマーン朝がカラ=ハン朝に滅ぼされ、またまもなくガズナ朝が侵攻してくるなどの混乱の中でブハラを離れた。中央アジアから西アジアの各地を放浪し、ホラズムを経てイランに移り、ハマダーン(かつてのメディア王国の都、エクバタナ)のブワイフ朝君主の宰相を務めた。
諸学に精通し、その著作は100を越え、「学問の長老」と称された。『治癒の書』は哲学の百科全書で、アリストテレスの哲学を基礎とし、ギリシア哲学とイスラーム神学の融合をはかった。また『医学典範』はアラビア医学の大系化を試みた書で、イブン=シーナーの主著に数えられている。両書とも12世紀頃からラテン語に翻訳され、16世紀にいたるまで中世ヨーロッパのスコラ哲学や医学の教科書として用いられ、イブン=シーナーはラテン名でアヴィケンナと呼ばれた。
イブン=シーナーの霊廟
1037年、イランのハマダーンで死去し、1980年にはイラン=イスラム共和国によって墓所に霊廟が建立された。イブン=ルシュド
イブン=ルシュドは1126年にコルドバの代々のカーディー(法官)の家に生まれ、最初は法学を修めた。27歳でモロッコのマラケシュに赴いてムワッヒド朝の君主に謁見した。セビリャや頃ドバで法官となり、のちムワッヒド朝君主の主治医となった。一時、イスラーム信仰に反するとしてコルドバで投獄されたが、最後はモロッコに迎えられて同地で没した。
彼の葬儀に際して、馬の背中の片側に棺が、もう片側に彼の著書が積まれてやっと平衡を保っていたという逸話が伝えられるほ多数にのぼったその著書は、アラブよりもむしろイベリアでユダヤ教徒によってヘブライ語に翻訳され、ヨーロッパに多くの影響を与えた。特にアリストテレスに関する研究・註釈は中世ヨーロッパの学界におけるアリストテレス研究の出発点となり、「自然はアリストテレスによって、アリストテレスはアヴェロエスによって解釈された」と言われるほどである。
また『医学概論』も中世ヨーロッパでは著名で、彼のラテン名アヴェロエスが広く知られた。
イブン=バットゥータ
イブン=バットゥータは1304年にモロッコのタンジールで、アラビア化したベルベル人として生まれた。22歳の時、イスラームの聖地メッカの巡礼を志して故郷を出発した。本来は往復16ヶ月の道程である。しかし、彼が再びモロッコの地を踏むのは24年後となった。 陸路エジプトを経てシリアからメッカに巡礼した後、イラク・小アジアを旅して1333年から8年余りデリーに滞在した。ついでスマトラ・泉州を経て元朝治下の大都(北京)に至り、再びイラク・エジプトを通って1349年、46歳でいったんモロッコに戻った。その後、イベリア半島のグラナダを訪問、帰途サハラ砂漠を越えてニジェール川流域の黒人王国、マリ王国を訪れた。1354年にモロッコに帰ってさしもの大旅行を終えた。
移動距離は延べ約 12万km、地球3周分にも及ぶ。その間トゥグルク朝の王ムハンマド=ビン=トゥグルクをはじめ,少なくとも 60人のスルタンら君主のほか,多数の政府高官,行政官,大使らと出会い,彼の記録によるとその数は 2000人以上に上った。これらの旅行で得た見聞はイブン=ジュザイによって口述筆記され、1356年に『都市の不思議と旅の驚異をみる者への贈物(三大陸周遊記)』と題する旅行記が完成した。
イブン=ハルドゥーン
イブン=ハルドゥーンは1332年にハフス朝時代の北アフリカのチュニスで、ベルベル人ではなくアラブ人の貴族の子として生まれた。20歳で政治生活に入ってからチュニスやモロッコのスルタンに秘書として仕え、一時は宰相に地位にも衝いた。しかし、変転極まりない政治世界の現実に裏切られて絶望し、42歳のとき突然北アフリカの山中にこもって『歴史序説』の執筆を開始した。その完成後は引き続き世界史の本論を書きすすめ、1382年からはマムルーク朝治下のカイロに居を移して、歴史学を講ずるかたわらマーリク派の裁判官を務めた。1401年ダマスクスを包囲したティムールと和平交渉のため会見した後カイロに戻り、1406年そこで没した。
64歳のティムールと68歳のイブン=ハルドゥーンとの会見はダマスクス近郊のグータの森でおこなわれた。会談の途中で、英雄ティムールはこの希代の碩学にサマルカンドへの同行をしきりに求めた。しかしイブン=ハルドゥーンは征服者の厚意に感謝しつつも、結局、最後には家族や友人のいるカイロへの帰還を希望したと伝えられる。両者の会談は35日にも及んだが、この間にダマスクス市内では征服軍による略奪や放火や殺人が容赦なくおこなわれたと伝えられる。
以上の4人はイスラーム世界で4大イブンと呼ばれている。イスラームにはイブンさんがやたらに多いが、「イブン」はアラビア語で「息子」のこと。ウサマ=ビン=ラーディンの「ビン」も同様に「息子」のことで、「ラーデンの息子のウサマ」というように苗字のように使われているので、イブンだらけ、ビンだらけになってしまうという訳だ。
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