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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴ってまいりましたが、これからしばらくは世界史のミラクルワールドをお届けします。

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世界史のミラクルワールドー風雲児ティムール・ティムール朝①

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ティムール

 1336年、ティムールはサマルカンドの南、ケシュ(現在のシャフリサーブス)の近郊に、トルコ化しイスラーム化したモンゴル族の一つ、バルラス部の一員として生まれた。ティムールとはモンゴル語でもトルコ語でも「鉄」の意味。チンギス=ハンの本名であるテムジンは「鉄の男」の意味なので、二人の名前は共通する。

 彼の5代前の先祖はカラチャル=ノヤンというモンゴル人で、13世紀の初頭にチャガタイ=ハンとともにモンゴリアから中央アジアに移住し、ハンの補佐役としてハン家内部の諸問題を取り扱った有力者であった。しかし、この一族はティムールの曾祖父の時代になると、もはや昔日の有力者としての立場を失ってしまっていた。

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 1370年、ティムールはチャガタイ=ハン国のハンの一族の一人フセインの軍を破り、フセインを殺害してマー=ワラー=アンナフル(ソグディアナ)唯一最高の実力者であることをクリルタイで承認された。ティムール朝の成立である。

 ただしティムールは、自らがチンギス=ハン家の出身者ではないことを考え、名目的なハンの位にはチンギス=ハン家の王子を擁立し、自らはチンギス=ハンの血をひく女性をめとって、ハン家の女婿(キュレゲン)としての立場に身をおくことで満足した。そして、この時以降ティムールは終生ハンを称さず、常にアミール・ティムール・キュレゲンと(「チンギス=ハン家の女婿、遊牧貴族ティムール」の意味)を名乗った。

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タシケントのティムール像

 ティムールはチンギス=ハンの子孫と称し、その事業を再現することをかかげ、たびたび自らが軍隊を率いて遠征を行った。1380年にはイランに侵入してイスファハーンを占領、すでに衰えていたイル=ハン国を吸収し、イラン高原に支配領域を広げた。さらに北西に向かい、ロシアに入り旧キプチャク=ハン国の都サライを略奪してその領域も併合した。

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 ティムールとマフムードの戦闘

 1398年、ティムールは方向を転じて南方に向かい、インドに侵入しトゥグルク朝の都デリーを襲撃した。偶像崇拝の異教徒(ヒンドゥー教徒)を甘やかしているインドのムスリム王権に鉄槌を下すという大義名分を掲げていたが、狙いは「インドの富」にあり、同年12月17日にデリー郊外でトゥグルク朝スルタンのマフムードの軍を一蹴して翌日デリーを占領、その時捕虜約10万を足手まといとして虐殺した。デリーで破壊と略奪をほしいままにし、わずか15日間とどまっただけで、翌年1月1日に膨大な戦利品と多数の捕虜を連行してサマルカンドに向かった。

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ビビハニム=モスク

 このときサマルカンドに連行された多数の職人・技術者はサマルカンドのビビハニム=モスクの造営に充てられた。ビビハニムとは“第一婦人”のことで、本名はサライ=ムルク=ハーヌムといい、チンギス=ハンの末裔だ。ビビハニム=モスクはその第一婦人がティムールのインド遠征の凱旋にこたえて贈ったモスクだそうで、中央アジア最大の広さを誇り、サッカー場がすっぽり入る敷地に巨大な建築群が立ち並ぶ。

 ビビハニム=モスクは1399年に着工し、ティムールの死の1年前、1404年に異例の早さで完成した。しかし、落成後まもなくから煉瓦の落下が始まり、落下はとどまることなく、しだいに廃墟と化したそうである。あまりにも工事を急ぎすぎてしっかり基礎を造らなかったことと、あまりにも巨大過ぎたその構造に問題があったようだ。

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アンカラの戦い

  1400年、ティムールはマムルーク朝と対決するためシリアに侵攻、アレッポはあっという間に陥落し、頭蓋骨の山になった。さらにティムールはダマスクス郊外に全軍を展開した。ダマスクス側は和平交渉のため使節団を派遣したが、その中に歴史家イブン=ハルドゥーンがいた。ティムールとハルドゥーンの会談は35日にも及んだが、この間にダマスクス市内では征服軍による略奪や放火や殺人が容赦なくおこなわれ、ダマスクスは壊滅した。次いで小アジアに入ったティムールはアンカラでオスマン帝国との決戦に望んだ。

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捕虜となったバヤジット1世

 小アジアに侵入したティムールを迎えたのが、1396年のニコポリスの戦いでヨーロッパ十字軍に大勝したバヤジット1世である。ティムール軍はインド象軍を含む20万、これに対しオスマン帝国軍は12万。両者は7月20日、アンカラ北方のチュブク草原で激突した。早朝から夜にかけて行われた戦いは、オスマン帝国の大敗に終わった。

 バヤジット1世は退却しようとしたが、落馬して捕虜となってしまった。ティムールはバヤジット1世を格子付きのかごに乗せ、多くの捕虜とともにサマルカンドに連行するつもりであったが、これを知ったバヤジット1世は服毒して自殺した。この敗戦の結果、オスマン帝国は一時中断することになる。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/10/20 05:34 】

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