fc2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

世界史のミラクルワールドー呪われた棺・ティムール朝②

765c3ffc3d5622a628370aeb80a2da5b--brother-chinese_convert_20181206112617.jpg 
永楽帝

 ティムールが出現して西アジアの大半を征服したのと同じ頃、東アジアに登場したのが朱元璋であった。ティムールは明が元を滅ぼし、モンゴルを北辺に追いやったことに対し復讐を宣言し、その明で太祖洪武帝が死に、靖難の役の内乱が勃発したことを好機と捕らえ、アンカラの戦いから転じて20万の大軍を東に向け、パミール高原を越えて進軍させた。

 そのままいけば、モンゴル帝国の再現をめざすティムールと中華帝国の建設をめざす永楽帝という英雄同士の戦いとなるところであったが、ティムールは途中のオトラルで1405年2月18日に病死(異常な寒さをしのぐため酒を飲み過ぎたためといわれる)し、対決は実現しなかった。
 
src_11045832_convert_20191008114559.jpg 
グリ=アミール廟

 ティムールが眠るのがサマルカンドのグリ=アミール廟。もともとは彼の最愛の孫で王位継承者であったムハンマド=スルタンが建てたメドレセ(マドラサ)があったが、1403年に彼が29歳の若さで戦死すると、ティムールは隣に廟を建設した。ティムールがオトラルで亡くなった時、すでに生まれ故郷のシャフリサブスにティムールの廟は築かれていた。しかし、シャフリサブスへの道が雪で閉ざされていたため、遺体はサマルカンドに運ばれ、グリ=アミール廟で孫と一緒に眠ることになった。

20130407_259643_convert_20191008132807.jpg  

 中央の黒緑色の墓石がティムールの墓。その東側にムハンマド=スルタン、西側にティムール朝3代目のシャー=ルフ、南側にシャー=ルフの子で4代目のウルグ=ベク、北側にティムールの師ミルサイード=ベリケが眠る。しかし、これらはみな墓の位置を印した墓石で、亡骸は地下3mの墓室に葬られている。これはアグラのタージ=マハルと同じ構造。観光客が見ているシャー=ジャハーンとムムターズ=マハルのお墓には遺体は入っておらず、二人は地下に眠っている。ちなみに、タージ=マハルを建てたシャー=ジャハーンはティムールの子孫だ。

image271.jpg
ティムール

 1941年6月19日、ソ連のミハイル=ゲラシモフという学者がティムールの棺をあばいて学術調査を行っている。ゲラシモフは棺の内側に文章を発見し、解読した結果、「私が死の眠りから起きた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」という言葉が刻まれていた。しかしグラシモフは別段気にすることもなく、棺の蓋は開けられて調査が実施された。

 さらにゲラシモフは棺の内側に文章を発見し、そこには、「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つ」と書かれていた。そして、その言葉通り、6月22日にナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を開始、ソ連になだれ込んで来た。棺に刻まれていた言葉が真実となったのである。ティムールの遺体はイスラーム教式の丁重な葬礼で再埋葬された。

 この時の学術調査の結果、ティムールはやはり右足が不自由だったことが判明した。ティムールは略奪などをして生計を維持していた青年時代に、右手、右足に終生の障害を負った。そこから彼に敵意を抱く者がペルシア語で「ティムーリ=ラング(びっこのティムール)」と呼び、これが西欧では訛って「タメルラン」となったとされていたが、学術調査により歴史記述が正しかったことが証明された。写真のティムール像はゲラシモフが頭蓋骨から復元したものだ。

Shahruch_reconstruction_convert_20191008135842.jpg
シャー=ルフ 

 ティムール朝第3代君主のシャー=ルフはティムールの第4子であったが、ティムール死後の混乱を収束させる。彼は帝国の都を自らの本拠地ヘラート(現在のアフガニスタン西部)に移し、サマルカンドには息子のウルグ=ベクを知事として統治させた。またイラン、アフガニスタン方面にも息子達を分封し、一族による帝国支配を体制を固めた。その上で対外的には平和外交の路線を打ち出し、父ティムールが遠征を志した明との関係も修復し、両国間にしばしば使節の交換が行われた。その40年に近い治世は、ティムール朝を通じて、もっとも安定した時代となった。

Ulugh_Beg-e1427048374707_convert_20191008135942.jpg 
ウルグ=ベク
 
 15歳からサマルカンドの知事を務めたウルグ=ベクは、学芸を保護・奨励し、首都サマルカンドには天文台やメドレセ(学校)が建てられたため、サマルカンドはイスラーム文化の中心地として栄えた。

src_11040169_convert_20191008135913.jpg 
ウルグ=ベク天文台

 彼の天文台では高度な観測が行われ、みずからも天体観測を行い、それをもとに作られた『キュレゲン天文表』はアラビア語やトルコ語に翻訳され、イスラーム世界に広く用いられた。

 1908年、ロシアの考古学者V.ヴャトキンによって、巨大な六分儀の地下部分11メートルが発見された。全体では40メートルあったらしく、いかに巨大な六分儀であったかがわかる。ウルグ=ベクがこの六分儀を使った太陽の観測記録から割り出した1年の長さが365日6時間10分8秒。現在コンピューターを使って割り出した365日6時間9分9.6秒とたった1分しか違わない。

 しかし、ウルグ=ベクの天文学研究やメドレセにおける男女の教育の実施などは、ブハラをはじめとする聖職者層からはイスラームの教えに反するものという反発が強くなった。1447年、父の死のより即位したが、たちまち内乱が生じ、それに乗じた中央アジアのトルコ系ウベクズ人が侵入、彼自身も1449年に長男アブドゥル=リャティフに殺されるなど、約50年後に帝国の滅亡をもたらす素地をなした。

_convert_20191008114647.jpg 
サマルカンドのティムール像

 現在、ティムールはトルコ系民族の英雄として、特にソ連滅亡後独立したウズベキスタン共和国では国民統合の象徴とされ、タシケント、サマルカンド、生まれ故郷のシャリサーブズに銅像が建てられ、その遺跡が復興されている。

 しかし、ティムール朝を滅ぼしたシャイバニー朝はウズベク人の国家であり、ティムール朝を滅ぼした集団の名前を冠する民族がティムールを称賛しているのには、大きな矛盾がある。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!

スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/10/23 05:38 】

イスラーム史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< 世界史のミラクルワールドーイスファハーンは世界の半分・サファヴィー朝 | ホーム | 世界史のミラクルワールドー風雲児ティムール・ティムール朝① >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |