なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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イスマーイールはアルダビールで神秘主義教団の教主の子として生まれ、苦難のうちに成長した。やがてトゥルクメン系の7部族の支持で、アナトリア東部に勢力を張っていたトゥルクメンの君公国白羊朝を倒して1501年にタブリーズで即位、シャー(国王)としてイスマーイール1世を称し、サファヴィー朝を建国した。この時、イスマーイールは僅か14歳であった。
イスマーイールはタブリーズのモスクでシーア派の一派である十二イマーム派を信仰することを宣言した。十二イマーム派はシーア派指導者であるイマームの地位は、初代アリーから12代目までムハンマドの子孫によって継承されたが、それ以降は「隠れイマーム」となり人々の前から姿を消したとする。隠れイマームは最後の審判の日に再臨するが、それまではサファヴィー朝のシャーが「隠れイマームの代理」として統治するものとされた。
イスマーイールはタブリーズのモスクでシーア派の一派である十二イマーム派を信仰することを宣言した。十二イマーム派はシーア派指導者であるイマームの地位は、初代アリーから12代目までムハンマドの子孫によって継承されたが、それ以降は「隠れイマーム」となり人々の前から姿を消したとする。隠れイマームは最後の審判の日に再臨するが、それまではサファヴィー朝のシャーが「隠れイマームの代理」として統治するものとされた。

キジルバシュ
サファヴィー朝はその後10年間で全イランをほぼ統一して、ササン朝滅亡以来7世紀半ぶりにイラン民族国家を建設したが、その原動力となったのがトルコ系遊牧民の騎兵部隊であったが、彼らは赤い心棒にイマームの数に由来する12の襞がある布を巻きつけたターバンを被ったことから、トルコ語で「赤い頭」を意味するキズルバシュの名で呼ばれた。 キジルバシュは教主イスマーイールを救世主と信じており、教主のもとでの死は殉教死となるため、彼らは死を恐れずに戦った。死を恐れずに戦い、密集した陣形を取って敵に突撃を繰り返すキズルバシュの騎兵は、他国の兵士から恐れられたである。
チャルディラーンの戦い
1514年、アナトリア高原東部のチャルディラーンの野で、セリム1世のオスマン帝国軍と、イスマーイール1世のサファヴィー朝軍が激突した。結果的にはオスマン軍のイェニチェリ軍団が鉄砲などの新しい武器を利用し、サファヴィー朝のキジルバシュの突撃を食い止め、オスマン軍の勝利となった。鉄砲という新しい武器の前でキジルバジというトルコ系騎兵に依存する軍事力の限界が示された。その後もシリア、イラクをめぐってオスマン帝国とサファヴィー朝は攻防を繰り返すこととなる。
チャルディラーンの戦いの後、政治への興味を失ったイスマーイール1世は酒に溺れ、失意の中で1524年に37歳で亡くなった。第2代のシャーとなった息子のタフマースブ1世はわずか10歳で、抑えを失ったキズルバシュは君主の後ろ盾の座を巡って有力部族同士で内紛を繰り返し、サファヴィー朝は王朝最初の危機を迎えた。
チャルディラーンの戦いの後、政治への興味を失ったイスマーイール1世は酒に溺れ、失意の中で1524年に37歳で亡くなった。第2代のシャーとなった息子のタフマースブ1世はわずか10歳で、抑えを失ったキズルバシュは君主の後ろ盾の座を巡って有力部族同士で内紛を繰り返し、サファヴィー朝は王朝最初の危機を迎えた。
小姓と戯れるアッバース1世
サファヴィー朝を再建したのが16世紀末に現れたアッバース1世である。彼はまずキジルバシュ勢力を抑えるため、奴隷兵などからなる常備軍を整備し、また親衛隊を育成して皇帝権力を強め、側近を各地に派遣して中央集権体制を回復させた。
国力を回復させたアッバース1世は、アゼルバイジャンのタブリーズやイラクをオスマン帝国から奪還し、また当時始まっていたポルトガル人の侵出により奪われていたペルシア湾入口のホルムズ島からその勢力を駆逐した(その際にはイギリス東インド会社の助力を得たとされている)。
イスファハーンのイマーム=モスク
1597年、アッバース1世はガズヴィーンからペルシア中部のイスファハーンに遷都し、イスファハーン旧市街の郊外に王宮を中心に、「王のモスク」(現イマーム=モスク)などのモスクが立ち並ぶ公共空間が建設された。ペルシア系、テュルク系の宮廷の人々のほか、アルメニア商人やインド商人など遠隔地交易に従事する多くの異郷出身者が住み着いたイスファハーンの人口は50万人に達し、「イスファハーンは世界の半分」と言われるほどの繁栄ぶりを示した。
1673年、ここを訪れたフランスの宝石商人シャルダンの報告『ペルシアの都イスファハーンの描写』は、当時なお盛時の面影を残すこの都市の詳細な記録を今日の我々に教える貴重な史料である。
旧市街と新市街の接点に新設された東西180m、南北550mの「王の広場」は、二層のアーチ式回廊に囲まれ、その表面は青・赤・黄などの彩釉タイルの幾何学模様の装飾が施されている。公式行事が行われる日を除けば、この広場には露店のテントが並び、回廊にも工房や商店が入っていた。外国使臣などが訪問すれば、回廊の前面に5万個に及ぶ小さな灯油ランプが灯されたという。電気のない当時にあって想像を絶する光景であろう。
「王の広場」の西側に王宮地域がある。王宮といっても西欧のゴシック建築のような豪壮な建築物はなく、せいぜい東屋程度である。だが、王族の贅沢は建物ではない。塀に囲まれた内部のほとんどは庭園であり、水と緑にあふれていた。沙漠の遊牧民にとって水と緑こそ最高の贅沢であったのだ。新市街には庭に恵まれた高官・貴族の屋敷が立ち並んでいた。「イスファハーンは世界の半分」と豪語されたのもむべなるかなである。
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