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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー稲妻王バヤジット1世・オスマン帝国①

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オスマン=ベイ

 13世紀の小アジア(アナトリア)西部は、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が支配していたが、十字軍運動の侵攻を受けて衰退、さらに東方からのモンゴルの侵入を受け、1242年その属国となった。ルーム=セルジューク朝の弱体化に伴い、小アジアにはトルコ人のイスラーム戦士の集団であるガーズィーが無数に生まれ、互いに抗争するようになった。その中で有力なものがベイ(君侯)を称し小規模な君侯国を創っていった。

 オスマン帝国の創始者オスマン=ベイもそのようなベイの一人であり、彼は自分の名を部族名とし、他のトルコ系部族と連合しながら周辺のキリスト教国を征服し、1299年に小アジア西部の小君侯国として独立した。後にオスマン帝国に発展してから、その始祖としてオスマン1世と言われるようになった。彼は、ビザンツ帝国領のブルサ攻撃にとりかかり、勝利したが入城直前に病没した。

オルハン 
オルハン=ベイ

 息子のオルハン=ベイが1326年にブルサに入って新首都と定め、それまでの遊牧部族の部隊を正規軍団に編制し、初めて貨幣を発行するなど、オスマン国家としての形態を整えた。オルハン=ベイは征服活動を再開し、キリスト教の聖地ニケーアを攻略し、コンスタンティノープルと指呼の間に軍を進めた。そのころビザンツ帝国は皇帝位を巡って二派が対立する内紛が起こっており、カンタグゼノス家のヨハネスはオルハンを味方につけようとして、1346年に娘テオドラと結婚させ、その後にビザンツ帝国皇帝ヨハネス6世となった。 

 オルハンの率いる軍団はビザンツ帝国に招き入れられる形でヨーロッパ側のバルカン半島に入り、1354年にダーダネルス海峡の要所ガリポリ(トルコ語ではゲリボル)を獲得した。これ以後、オスマン国家の勢力圏はバルカン半島に広がっていく。

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ムラト1世

 1361年、ムラト1世がアドリアノープルを攻略、1366年に新首都エディルネと改称した。

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コソヴォの戦い

 オスマン帝国のバルカン征服の過程で行われたいくつもの戦いの中で、とりわけ重要なのは1389年6月15日のコソヴォ(コソボ)平野の戦いである。オスマン側の指揮をとったのはムラト1世であるが、バルカン側はブルガリア人、セルビア人、ハンガリー人などからなる連合軍で、セルビア王ラザールが指揮をとっていた。この戦いでオスマン側が勝利したことは、そのバルカン支配の大きな節目となった。だが、ムラト1世は、戦いの最中に一人のセルビア人に切りつけられ、戦後すぐに死去した。

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 オスマン側はその報復としてセルビア王ラザールをはじめ多くのセルビア人領主を処刑した。その結果オスマン側の報復を恐れたセルビア人が大挙コソヴォ地方を捨てて、北方へ移動したため、やがてこの地方にはアルバニア人が多く入植した。

 この地方は2008年にコソヴォ共和国として独立したが、セルビア人主導の旧ユーゴスラヴィア以来のセルビア共和国中央政府との間にさまざまな紛争を起こして来たことは周知の事実である。一方、コソヴォの敗戦はセルビア人にとって耐え難い屈辱として記憶された。

 バヤジット1世
バヤジット1世

 ムラト1世の死後、王位はただちに息子のバヤジット1世によって受け継がれた。彼はイェニチェリ軍団を編成し、常備軍を整備し強力な君主権を創りだし、領土拡張をさらに精力的に推し進めた。彼は片目がつぶれていたとも、やぶ睨みだったとも伝えられているが、イルドリム(稲妻)とあだ名されるほど迅速に行動する軍事的な天才だった。

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ジギスムント

 バルカンでは、ハンガリー国王のジギスムント(後に神聖ローマ皇帝となりコンスタンツ公会議を主催する)を中心に対オスマン「十字軍」が結成された。これには、フランス、イングランド、スコットランド、フランドル、ロンバルディア、ボヘミア、ドイツの各地からやって来た騎士や貴族も加わっていた。

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ニコポリスの戦い

 ジギスムントはオスマン軍を出来るだけハンガリーの首都であるブダに引きつけて長い行軍に疲れさせる考えであった。しかし、聖地イェルサレムへ向かおうとする十字軍意識に高揚したフランス軍はバルカン内部への進軍を主張した。こうしてドナウ河畔へと軍を進めた「十字軍」とオスマン軍は、1396年9月、ブルガリアの最北部にあるドナウ沿岸のニコポリスで激突した。結果は「十字軍」側の大敗北であった。
 
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 この戦いの勝利によってオスマン帝国のバルカン領土は一挙にドナウ河畔まで拡大した。これに気をよくしたバヤジットは、一転アナトリアへと軍を進めた。1397年の暮れには最大の強敵であった南東アナトリアのカラマン侯国を、翌98年には黒海沿岸のイスラーム法官であるカーディ=ブルハネッディンの国家をも併合し、ここにオスマン帝国の国境はドナウ河からユーフラテス川にいたる一大帝国となった。有名なイェニチェリ軍団はすでに父ムラトの時代に創設されていたが、バヤジットはこれをさらに組織化し、その軍勢は5000人に達していた。

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ティムール
 
 バヤジットがコンスタンティノープルを包囲攻撃していた1399年、サマルカンドを首都にソグディアナからイラン、イラク、アフガニスタンにいたる大帝国を築き上げたティムールがアナトリアへと軍を進めて来た。両軍は1402年7月にアンカラ郊外のチュプク平原で激突した。バヤジット側はカラマン侯国のほかに西アナトリアのトルコ系諸侯国およびバルカンのキリスト教徒従属国の兵士たちからなっていた。しかし、戦いのさなかにアナトリアの兵士たちがティムール側に寝返ったため、バヤジット側の敗北は決定的となった。

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捕虜となったバヤジット1世

 バヤジットは捕虜となり、ティムールはアナトリアのすべてのトルコ系君侯国を復活させた。ティムールは約8カ月ほどアナトリアに滞在した後、バヤジットを伴ったままサマルカンドへ帰還の途についたが、その道中でバヤジットは1403年3月8日に自害した。こうしてバヤジット1世の「帝国」は瓦解し、オスマン帝国は、以後約10年間空位時代を経験することになる。それにも拘わらず、王位継承戦を勝ち抜いたメメトフ1世と、つづくムラト2世の時代にオスマン帝国は急速に立ち直り、アナトリアとバルカンで喪失した領土を回復していった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/10/29 04:35 】

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