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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドートルコ艦隊山を行く・オスマン帝国②

 メフメト2世
メフメト2世

アンカラの戦いの敗北で領土を失ったオスマン帝国であったが、メフメト1世、ムラト2世の2代で国力を回復した。ムラト2世は一度退位してメフメト2世にその位を譲っている。しかし、まだ12歳だったメフメトに国家運営は難しく、結局はムラト2世が復位し、その死に際して1451年に再びスルタンの地位に就任した。

 スルタンになった彼が最初にしたことは、弟アフメトの処刑であった。この時に、皇帝が決まると、その兄弟は殺されるというオスマン帝国の法ができたとされる。メフメト2世が「世界の秩序が乱れるより、殺人のほうが望ましい」というイスラーム法学者の意見を得て、兄弟殺しの法令を定めたと言う。しかし、皇帝の兄弟を殺すことはバヤジット1世の時にも見られ、オスマン皇帝の専制化が進む中で、皇位争いを防ぐために成立した慣行だった。

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コンスタンティノープル

 メフメト2世はその精力的な征服活動もあって、ヨーロッパ諸国からは「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」などと恐れられているが、トルコ人にとっては偉大なる君主以外の何者でもないことはもちろんである。

 コンスタンティノープルの征服は彼の子供の頃からの夢の実現であった。それは、継母であるセルビアの旧封建領主の娘カラからコンスタンティノープルの絵を見せてもらったりして、早くからこの町になみなみならぬ関心を持っていたからである。

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ルメリ・ヒサル要塞

 メフメト2世は1452年にボスポラス海峡のヨーロッパ側、つまりコンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、都市を陥落させるための足がかりとした。この城は「ローマの城」という意味のルメリ・ヒサルと呼ばれた。

 コンスタンティノス11世は西ヨーロッパ諸国に救援を求めたもののその反応は鈍く、ローマ教皇ニコラウス5世はこれに応じる姿勢を見せたが実質的な進展はほとんど見られなかった。コンスタンティノープルを重要な商業拠点とするヴェネツィアとジェノヴァは援軍を送り、ビザンツ軍は2000人の外国人傭兵を含めて7000人になった。

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テオドシウスの城壁

 「テオドシウスの城壁」は5世紀の皇帝テオドシウス2世の命によって建設された。濠と二重の城壁からなる三重構造の大城壁で、コンスタンティノープルの西側を覆うように7キロにわたって続く。コンスタンティノープルはこの「テオドシウスの城壁」を含む総延長26キロの城壁で囲まれており、難攻不落を誇り、コンスタンティノープルへと攻め寄せた敵を度々撃退した。

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ウルバン砲

 オスマン帝国側は、スルタン直属の最精鋭部隊であったイェニチェリ軍団2万人を中心とした10万人の大軍勢に加え、海からも包囲するために艦船を建造させた。またハンガリー人の技術者ウルバンを雇い、当時としては新兵器であった大砲を作らせた。それは長さ8m以上、直径約75cmという巨大なもので、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができた。

 ただし、ウルバンの巨砲にも欠点はあった。「コンスタンティノープルのどこか」といったような、かなり大きな標的でさえも外すほど命中精度が低かったのである。さらに1回発射してから次の発射までに3時間かかった。砲弾として使える石が非常に少なく、射撃の反動が元で6週間使うと大砲が壊れるという始末であった。

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 実はウルバンが新式大砲の設計図を最初に持ち込んだのは、ビザンツ帝国だった。しかし、ビザンツ帝国には大砲鋳造の資金はおろか、彼を雇う金さえなかった。断られたウルバンはオスマン帝国に赴き、その結果、「ばけもの」と名づけられた大砲がコンスタンティノープルの城壁の前に並べられたのであった。

 メフメト2世は、コンスタンティノープルが唯一陸地に面する西側の城壁から攻撃しようとし、1453年4月2日の復活大祭の日に、都市郊外に軍隊を野営させた。7週間にわたり大砲により城壁を攻撃したが、十分に崩すことはできなかった。というのは、射撃間隔がとても長かったため、ビザンツ側はその損害のほとんどを回復することができたためである。

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 包囲されたビザンツ側の唯一の希望は海にあり、町の北側で細長く入り込んだ金角湾の入り口に鉄鎖を張り、敵の艦船の侵入を食い止めていた。途中、救援物資を積載したジェノヴァ船3隻とビザンツ船1隻が金角湾に来航し、オスマン艦隊と海戦になったものの、オスマン艦隊は彼らを拿捕することに失敗した。

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 オスマン帝国側は膠着状態を打開すべく、金角湾の北側の陸地(ジェノヴァ人居住区があったガラタの外側)に油を塗った木の道を造り、それを使って陸を越え70隻もの船を金角湾に移す作戦に出た。「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこの奇策は成功し、これによりジェノヴァ船による援助物資の供給は阻止され、ビザンツ帝国軍の士気をくじくことになった。しかし、陸上の城壁を破る助けとはならなかった。

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コンスタンティノス11世

 オスマン軍による包囲は2カ月続いたが、この間にコンスタンティノープル政府とメフメト2世との間で和平交渉が形式的に行われた。メフメト2世は降伏開城を呼びかけたがコンスタンティノス11世はこれを拒絶し、包囲戦は続行された。またオスマン陣営内でも和平派と主戦派が激論を戦わせる場面もあったようであるが、最終的には後者が勝り、メフメト2世は総攻撃を決定した。

 ビザンツ側も、最後を察知していた。5月28日の夜、コンスタンティノス11世は宮殿で大臣や将兵を前に最後の演説を行った。将兵たちは涙ながらに「キリストのために死ぬのだ!」と叫び、みなお互いに別れを告げあった。その後ハギア=ソフィア大聖堂で聖体礼儀が行なわれ、皇帝コンスタンティノス11世以下将官、市民など多くの人々が神に最後の祈りを捧げた。聖体礼儀が終わると、コンスタンティノス11世は臣下の一人一人に自らの不徳を詫び、許しを乞うた。その場にいたもので涙を流さない者はいなかったという。

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 5月28日の深夜からオスマン軍の総攻撃で城壁は破られ、5月29日夜明け前には城壁にオスマン帝国のクレセント(新月旗)が翻り、「千年の都」とともに、ビザンツ帝国1000年の歴史に終止符が打たれた。

 
コンスタンティノス11世は、最後まで前線で指揮を執り続けた。ドゥカスの伝えるところでは、城壁にオスマンの旗が翻ったのをみたコンスタンティノス11世は身につけていた帝国の国章(双頭の鷲の紋章)をちぎり捨て、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、「誰か朕の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、親衛軍とともにオスマン軍の渦の中へ斬り込んでいったと言われている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/11/03 05:43 】

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