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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー因果は巡る・ムガル帝国③

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ジャハンギール

 1605年に即位したジャハンギールであったが、1610年頃から病気の発作を起こすようになり、ムガル帝国の国政は宰相イティマード=ウッダウラや皇帝の妃ヌール=ジャハーン、その弟アーサフ=ハーンに握られていった。

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ヌール=ジャハーン

 1612年、宰相イティマード=ウッダウラが死ぬと、ヌール=ジャハーンが事実上の皇帝のように振舞うようになり、その専横が目立った。ジャハンギールは彼女を重用し、皇帝の勅令には彼女の名も記され、その名を刻んだ硬貨を鋳造させた。このように帝国の国政は乱れ、ジャハンギールの長男フスロー、次男のパルヴィーズ、3男のフッラム、4男のシャフリヤールの間で、帝位継承をめぐる争いが発生した。

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シャー=ジャハーン

 兄と弟を殺害し、熾烈な皇位継承争いを勝ち抜いたのが3男のフッラムで、1628年シャー=ジャハーンと名乗ってアグラで即位した。シャー=ジャハーンとは「世界の皇帝」の意味である。

 シャー=ジャハーンはイランのサファヴィー朝からカンダハルを一時奪回し、デカン高原にも版図を広げたが、これは一面で晩年の財政難を引き起こした。内政では灌漑事業を進め、官吏の綱紀を正し、財政を豊かにし、学者・文化人を保護して文化の発展に寄与するなど盛時を迎えたが、ヒンドゥー寺院を破壊し、イスラーム・ヒンドゥー両教徒相互の結婚を禁止するなど、イスラーム化を強行した。

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ムムターズ=マハル

 ムムターズ=マハルは宮廷の大富豪アーサフ=ハーンの娘で、本名はアルジュマンド=バーヌー=ベーグという。ムムターズ=マハルとはペルシア語で「愛でられし王宮の光彩」「宮廷の選ばれし者」を意味する言葉であり、ジャハンギールから授けられた称号である。

 ムムターズ=マハルは17歳でシャー=ジャハーンに嫁いだ。夫に深く愛され、14人の子女をもうけ、1630年に第14子を生んだあと 産褥死してしまう。まだ36歳の若さであった。

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タージ=マハル

 シャー=ジャハーンはその死を大いに悲しみ、彼女の廟として建立したのがタージ=マハルである。 基壇の大きさは95m四方、本体は57m四方で、高さ67m、四隅のミナレットの高さは43m。それらすべての外壁が象嵌彫刻の施された白大理石で覆われている。1632年から22年の歳月をかけ、延べ2万人の職人によって造営されたと言われる。
 
晩年のシャージャハーン 
晩年のシャー=ジャハーン

 ムムターズ=マハルの死後、シャー=ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった。シャー=ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、1657年に重病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった。

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アウラングゼーブ

 シャー=ジャハーンは長男ダーラー=シコーを後継者としていたが、次男のベンガル太守シャー=シュジャー、3男のデカン太守アウラングゼーブ、4男のグジャラート太守ムラード=バフシュはこれを認めていなかった。

 1657年、父のシャー=ジャハーンが重病との報せが入ったとき、アウラングゼーブはデカン太守として都を離れていた。後継者争いは熾烈で、他の3人の兄弟の誰かがこのままでは皇帝になる。急遽都に戻ったアウラングゼーブは、ただちに父を監禁し、他の兄弟を殺して第6代の皇帝になった。父シャー=ジャハーンと同じ道を辿ったことになる。
 
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アグラ城から見たタージ=マハル

 廃帝シャー・ジャハーンは、1658年以降アグラ城のムサンマン=ブルジュ(囚われの塔)に幽閉され、亡き愛妃の眠るタージ=マハルを眺めながら、1666年に74歳で死去した。

 シャー=ジャハーンは自らの墓として「黒いタージ」を計画していた。鏡に映したかのように、ちょうどタージ=マハルのヤムナー河対岸に黒大理石で自らの廟墓を建て、その二つを大理石の橋でつなぐ予定であった。しかし、その夢は幻に終わってしまった。

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 シャー=ジャハーンの遺体は慣習に従い、王宮の壁が破られたのち、その破れ目から川の船に移された。そして、その遺体は川を渡って愛妃の眠るタージ=マハルに運ばれ、ムムターズ=マハルの遺体の横に安置された。(写真はレプリカ。本当の棺は地下に安置されている。)

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 アウラングゼーブは、熱心なスンナ派イスラーム信徒であったので、ムガル帝国のアクバル以来の方針を転換し、ヒンドゥー教徒との融和策を放棄、ジズヤの復活、ヒンドゥー寺院のモスクへの建て替えなどを強行した。(ヒンドゥー教だけではなく、イスラーム教以外の宗教、仏教やジャイナ教も否定され、寺院が破壊されたり仏像が壊されたりした。)その強硬姿勢は非ムスリムの激しい反発を買い、デカンのマラーター王国、パンジャーブのシク教などの勢力が一斉に反旗を翻した。

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シヴァージー

 マラーターの英雄といわれたのが、シヴァージーで、ゲリラ戦法によってムガル帝国に抵抗した。アウラングゼーブはマラーター王国討伐に全力を挙げ、自らもデカンに出兵した。シヴァージーは一旦捕らえられたが脱出し、マラーター勢力を結集してムガル帝国にあたるためヒンドゥー帝国の建設をめざし、1674年にマラーター王国をデカン高原西部に建国した。シヴァージーはムガル帝国との間で果敢な戦いを展開したが、1680年に赤痢が原因で死亡し、以後マラーター王国は急速に力を失っていった。

 1707年、デカン遠征の途中、アウラングゼーブは89歳で没した。その死後は、ムガル帝国の求心力は急速に失われ、イギリス・フランスの植民地侵略が始まる。


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/11/17 05:48 】

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