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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーアフリカ南端発見・バルトロメウ=ディアス

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ジョアン2世

 アフリカ西岸の探検を続けてきたエンリケ航海王子は1460年に病没する。時の国王アフォンソ5世はあまり航海に熱意を示さなかったが、1481年、ジョアン2世の即位とともに、ポルトガルは再び活発なアフリカ探検を始める。ジョアンはエンリケの熱意を受け継ぎ、インド航路の発見に全力を尽くした。

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サン=ジョルジュ=ダ=ミーナ要塞

 ジョアン2世は1482年に黄金海岸(現在のガーナ)のエルミナに要塞を築いた。エル=ミナは「金鉱」のことで、エンリケが派遣した船乗りたちが、この地方で大量の金を手に入れたことから名づけられた。ジョアン2世はこの地にサン=ジョルジュ=ダ=ミーナ要塞を築き、金を渇望していたポルトガルの、西アフリカからの金積出しの重要拠点となり、17世紀には大西洋奴隷貿易の拠点となった。

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プレスター=ジョン

 ジョアン2世はさらにアフリカ西岸への艦隊の派遣を続けた。1485年にはコンゴ、86年にはベニンに到達した航海者から、アフリカ奥地のキリスト教徒の存在(おそらくはアビシニア、つまりエチオピアのキリスト教徒のことであろう)が報告され、プレスター=ジョンを求めるジョアン2世は2つのルートで探検隊を派遣することとした。

 ルートの一つ、地中海を横断して陸路をとってインドを目指したのがコヴィリャンであり、大西洋を南下してアフリカ南端を廻ってインド抜けるコースの探検に派遣されたのがバルトロメウ=ディアスであった。

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バルトロメウ=ディアス

 ディアスの一家は代々リスボンに住む航海者で、バルトロメウの祖父ジョアン=ディアスはボハドール岬を、父ディニシュ=ディアスはヴェルデ岬を発見している。

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 1487年8月、バルトロメウ=ディアスは50トン級の小型船3隻でリスボンを出航した。50トンと言えば、今日では内海航路にも使わぬような小舟である。2隻はカラベル船だったが、もう1隻はスピードの遅い食料補給船だった。ディアスはおそらくパルマ岬からコンゴ河口へ直行し、そこから海岸線に密着しながら南に向かった。当時の習慣で海岸の地形にその発見日にちなむキリスト教の聖人の名を付け、連れてきた黒人を上陸させてポルトガル人の来着を知らせ、あわよくば内陸にいると思われるプレスター=ジョンの耳にもとどけようとした。

 ディアスは現在のナミビアにあるクロス岬に達すると、注意深く今後の計画を立てた。彼はその南方のワルビス湾に船足の遅い補給船を留め、さらに650キロほど南下して、オレンジ川河口に最初の石柱を立てた。そこからさらに南進したが、2,3日後に烈しい嵐に遭い、13日間も南方に押し流された。嵐が静まると、ディアスは進路を東に向けた。ところがどんなに東に進んでもアフリカは見えず、水夫たちは不安になって騒ぎ出した。そこで船を北方に向けると、やがて陸地が見え、今のモッセル湾に着いた。ディアスはこの時、船は陸地の東側に回っていることに気がついた。喜んだディアスは上陸して石柱を建て(パドローネ岬)、さらにインドを目指そうとした。

 しかし乗組員は嵐の中の航海に疲れ果て、補給船にもはぐれてしまい、ほとんど反乱寸前の状態になり、ディアスに帰国を迫った。ディアスは譲歩を余儀なくされ、パドローネ岬約50マイルの地点で反転した。岬に建てた石柱を眺めたディアスは「その石柱が恰も永の遠島に処せられた息子ででもあるかの如く、声を放って慟哭した」という記録が残っている。

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現在の喜望峰

 帰国の途中、この小艦隊は、彼らが捜し索めていた偉大な岬を発見した。彼が遭遇した荒天にちなんでディアスはこれをカボ=トルメントソ(嵐の岬)と命名し、聖フィリップに捧げる石柱を立てるのに上陸した。

 12月、テージョ川に帰り着き、16ヶ月に及ぶ航海を終えた。ポルトガル宮廷におけるディアス歓迎や恩賞についての記録は何もない(ポルトガルの秘密主義)のは当然ながら、彼の航海こそ実にインドへの路を遂に現実のものに変えたのであり、国王ジョアン2世は自ら長年追求して来た願望の成就を見越して「嵐の岬」を「喜望峰(カボ=ダ=ボア=エスペランサ)」という人を鼓舞する、そして永続性のある名に改めたのである。

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 ちなみに、喜望峰がアフリカ大陸最南端だと思っている人がいるが、 アフリカ大陸の最南端、すなわち大西洋とインド洋の境目にあたるのは、喜望の岬より東南に位置するアグラス岬である。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/11/27 05:39 】

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