FC2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

世界史のミラクルワールドーインド航路の完成・ヴァスコ=ダ=ガマ

photo01_convert_20191023113844.jpg 
 
 1488年、ディアスが喜望峰に達した時、もうインド航路の完成は近いと思われた。しかし、ポルトガル王は国内の政治不安に悩まされ、インド洋航海にゴーサインを出すことが出来なかった。

 それどころか、コロンブスの西回り航路の発見によって、ライバルのスペインがアメリカを獲得してしまう。スペインとポルトガルの両者は1494年のトルデシリャス条約で、アフリカ西岸のヴェルデ岬から370レグア(約2000km)西の子午線(西経46度30分)の西をスペイン、東をポルトガルの権利とする協定を成立させた。そこでポルトガルは東回りでアジアに到達することを急がねばならなくなった。

Vasco_da_Gama-min_convert_20191023112334.jpg 
ヴァスコ=ダ=ガマ

 1495年、ジョアン2世が死んで、従弟のマエルヌ1世がポルトガル国王となった。功名を急ぐこの26歳の青年王は、アフリカ周りのインド探検隊を編成し、その総司令官には、サンディエゴ修道会のヴァスコ=ダ=ガマを選んだ。

 ガマはポルトガル南部海岸のシネスの役人の子であったが、航海者としての実績は判っていない。当初はディアスが船団編成の責任者となったが、結局ガマが司令官となり、ディアスは途中のギニア突出部まで同行し、そこからエル=ミナに向かったところをみると、ガマは既に相当の実績を持つ人物だったと考えられる。その船団にはディアスの航海に加わっていたベテランの船乗りも加わり、またスペイン系ユダヤ人アブラハム=ザクートは天体観測の実習を乗組員に施したり、「万年暦」や赤緯表など遠洋航海術で協力した。

_convert_20191023112405.jpg 
サン=ガブリエル号
 
 1497年7月8日、ガマは4隻の船を率いてインドに向かった。彼が乗ったサン=ガブリエル号は120トン、弟のパウロはサン=ラファエル号(120トン)、他に50トンのカラベル船と、200トンの運送船を従え、乗組員は全部で170人だった。乗組員の中には、黒人の給使や水先案内人、特赦の代償に危険な任務を負う10数名の元死刑囚もいた。

_convert_20191023112436.jpg 
リスボンを出港するガマ

 ガマは勇敢な航海者だった。7月15日カナリア諸島を出発すると、濃霧のため4隻の船はバラバラになったが、8月3日にヴェルデ岬沖で合流し、そこからは大胆にも大西洋の真ん中を突っ切って喜望峰に向かった。彼はギニア湾の凪と逆風の貿易風を避けたのだ。なぜなら、船上での生活が長引けば、ビタミンC不足から壊血病となり、下手をすると命取りになるからだ。しかし、物凄い嵐に襲われ、不平を言う水夫をなだめるのに一苦労した。

 彼はそのまま南緯30度まで南下すると、東進してセント=ヘレナ湾に着いた。ここまでの航海に3カ月かかり、7000キロの大航海だった。コロンブスの大航海も約4000キロだから、これからさらにアフリカの東岸を周り、インドに達したガマの航海は人類最初の大洋航海と言ってよい。

 セント=ヘレナ湾でしばらく休養したのち、ガマはさらに南下して、11月22日に喜望峰を通り、モッセル湾に上陸した。ここで運送船がボロボロになったので廃棄し、食料は各船に分配した。

_convert_20191023132818.jpg 
モザンビークに上陸

 アフリカ東岸北上の旅も楽ではなかった。ナタール沖では潮流に押し流され、翌年1月23日にやっとソファラに着き、3月1日にはモザンビークに入った。沖合にマダガスカル島を見るこの港には、多数のアラビア商船が錨を下ろし、金、銀、香料、ルビー、真珠など、ずっと東方から運んできた商品を取引していた。

 ガマの一行はこの町の住民の多くがアラビア語を話すムスリムであることに気がつき警戒を強めた。1492年にグラナダを征服し、イスラーム教徒の王を海の向こうに追い払ったばかりのイベリア半島からやってきたポルトガル人たちは、アラビア語を話すムスリムに対し妄想に近い強い警戒感を持っていたのである。

 案内人と水と食料を確保するための交渉は思うように進まず、とうとうガマは武力の行使により水を奪うことを決意した。そして水場を守るモザンビークの人々にいきなり砲撃を浴びせ、抵抗を突破、地元の人2人を殺し、何人かを捕らえ人質にした。また、地元の船2隻とその積み荷も奪った。翌日、意気揚々と再び水場を訪れたポルトガル人は無抵抗で水を手に入れると、そのまま市街に入ってその中心で銃を何発か放った。暴力的に必要な物資を調えた船隊は、その翌々日に風を得て北へと去った。この水域の慣行を無視し、港の使用料を払わないままだった

イブン=マージド 
イブン=マージド

 ガマはモザンビークからさらに北上してモンバサにより、そこから僅か3日でマリンディの港に着いた。ここで彼は土地の王に親切に迎えられた。また、アラブ人の水先案内人であるイブン=マージドを雇った。彼はインドのグジャラートの生まれで、インド洋全域の航海に通じた最高の水先案内人となったされる。しかし、イブン=マージドを雇ったことには異論もある。

 また、国王へ要請していたキリスト教徒の水先案内人を得たが、実態はヒンドゥー教徒のインド人だった。

1280px-Gama_route_1_svg_convert_20191023112303.png 
 こうして1498年4月24日、ガマの船隊はマリンディからインドに向かった。アラブ人とインド人の水先案内人がついてはいたが、未知のインド洋航海は心細かった。壊血病がはびこって、多くの水夫が死んだ。マリンディを出発した一行は、不安と壊血病に苦しめられながら、東北方に進んだ。

_convert_20191023132843.jpg 
カリカット到達

 5月18日の朝、「もうそろそろインドだ!」とインド人の水先案内人がガマに言った。まもなく前方に陸地が見え、長い苦労はやっと稔ろうとしていた。それから一行は南に進み、5月21日、ついにカリカットに着いた。

 ガマがインドに到達した1498年は、ムガル帝国のインド制圧(1526年)の28年前にあたっている。当時のインドは、北インドとデカン高原にいくつものイスラーム教国があったが、南インドはヒンドゥー教国であるヴィジャヤナガル王国が存在していた。ヴィジャヤナガル王国の統治圏内には多くの小さな藩国があり、互いに争っている状態であった。

 カリカットはサムリ(ザムリン)という藩王が支配していたが、その地の貿易はイスラーム教徒であるアラブ人やペルシア人に握られていた。彼らイスラーム商人らはダウ船を操り、ホルムズを拠点とし、アラビアのアデン、アフリカ東岸のマリンディやモンバサ、モザンビークとインド西岸のカリカットやセイロン島を結ぶアラビア海の季節風貿易を抑え、香辛料や宝石、奴隷、馬などの交易を行っていた。彼らはさらにベンガル湾からマラッカ海峡までを活動範囲としており、マラッカには中国商人がジャンク船を操ってやって来て、絹織物や陶磁器をもたらし、イスラーム商人と盛んに取引を行っていた。

BaraldiDaGamaLL_convert_20191023132743.jpg 
カリカット藩王との面会

 沖合に艦隊を停泊させたガマは、まず一人の使者をボートで陸に向かわせた。この使者は危険な見知らぬ地で最初に陸に上がらせるためにポルトガルから船に乗せてきた囚人たちの一人だった。彼はスペイン語を話す2人のイスラーム商人の所へ連れて行かれ、商人たちをびっくりさせた。話し合いの結果、ガマは5月28日に藩王に面会した。

 ガマは12反の綿布、帽子6個、洗面器6個、砂糖入れ1個、鈴の珊瑚の数珠を献上したが、藩王は唾をペッと壺に吐いて、「メッカのどんな貧しい商人ももっと良い物をくれる」と嘲笑した。ガマは「私は商人ではなくて大使なのだ。これはポルトガル王からではなく、私の贈り物なのだ。王が贈り物をするならもっと豪華なものになるはずだ」と苦しい言い訳をした。

 ガマは、ここで多くの香辛料を買い集め、10月にゴアの南方からアフリカに向かった。帰りの船旅は行きよりもっと苦しく、逆風のためにインドからアフリカまで3カ月もかかった。その間に30人の乗組員が壊血病で死んだ。弟のパウロも病死し、船員も少なくなって、3隻の船は動かせなくなった。

Partida_de_Vasco_da_Gama_Para_a_テ肱dia_(Roque_Gameiro,_Quadros_da_Histテウria_de_Portugal,_1917)_convert_20191024091923 
ガマの帰還

 サン=ガブリエル号とバリオ号が喜望峰を回ったのは、3月下旬だった。ここからヴェルデ岬沖に直線コースで進んだが、2隻の船は嵐のために離ればなれになった。3万8000キロの大航海が終わったのは、1499年9月18日のことだった。ガマは弟のパウロをはじめ、100人以上の乗組員を失い、リスボンに着いたのはたった55人だった。

 しかし、ガマのインド航路の発見は、文字通り大成功だった。ガマがインドから持ち帰った胡椒・肉桂・薄荷を初めとする東方物産は、約60倍の価で売れたという。そして、とうとうインドと香辛料貿易を結ぶ未知が開かれたのだ。マヌエル1世はガマを貴族にし「ドン」の称号と3000デュカットの年金を与えた。あとはこの成功をどう発展させるかにかかっていた。

Pedro_テ〕vares_Cabral_-_steel_engraving_by_American_Bank_Note_Company_convert_20191024093319 
カブラル

 1500年、カブラルがヴァスコ=ダ=ガマの航路を採って南南西に向かい、その途中でブラジルを発見し、一時上陸した。そこから大西洋を横断、喜望峰を回ってインド洋を航海し、カリカットに到着。その南のコチンの領主から大量の香辛料を買い取ることに成功したが、カリカット藩王との通商条約締結には失敗した。

 1502年、ポルトガルは再びガマに20隻の船を率いて、インドに赴かせた。ガマは同年10月にカリカットに着き、ここで数百人の乗客を乗せたイスラーム船を焼き討ちしたり、インド人50人を虐殺したりした。そこで1503年2月には、インド・アラブ連合艦隊が押し寄せてきたが、ガマは大砲の威力でこれを撃破し、コーチンの王と通商条約を結び、同年10月、リスボンに帰った。

large_0a67efed-5652-48e3-9947-ea96ec170532_convert_20191024093238.jpg 
ジェロニモス修道院

 その後、インド、東南アジアでは、アルメイダとアルブケルケが大活躍するが、その死後インド方面は大混乱に陥った。そこでポルトガル王は1524年にガマをインド総督としてゴアに派遣した。インドのポルトガル基地は再び復活し、香辛料貿易も盛んになった。

 しかし、病魔が彼を捉えた。悪性の腫瘍がひどくなり、烈しい痛みに苦しみながら、その年の暮れに彼はインドで死んだ。インド航路の発見者であるヴァスコ=ダ=ガマは、彼の輝かしい誇りの国で、その一生を終えたのだった。

 彼の遺体は今、リスボンのジェロニモス修道院に眠っている。

↓ ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/12/01 05:25 】

ヨーロッパ近世史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< 世界史のミラクルワールドーインディアスの発見・コロンブス | ホーム | 世界史のミラクルワールドーアフリカ南端発見・バルトロメウ=ディアス >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |