なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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コロンブスはユダヤ系の毛織物業者の長男としてジェノヴァに生まれたとされるが、生年をはじめ、幼年時代の詳細は明らかではない。イタリア語ではクリストフォロ=コロンボ、英語ではクリストファー=コロンブスと表記する。
出奔して水夫となり、ポルトガルのリスボンに住み、各地を航海するうちに地球球体説を確信するようになった。地球球体説は検証はいたって困難だが、当時の船乗りたちのあいだでは、さほどの奇説ではなかった。すでに知識人のあいだでも囁かれている。
出奔して水夫となり、ポルトガルのリスボンに住み、各地を航海するうちに地球球体説を確信するようになった。地球球体説は検証はいたって困難だが、当時の船乗りたちのあいだでは、さほどの奇説ではなかった。すでに知識人のあいだでも囁かれている。
その一人がフィレンツェの地理学者トスカネリであった。トスカネリは1474年にポルトガル国王に当てた手紙の中で、ヨーロッパから西航してインドに到達する可能性があることを示唆している。リスボンでトスカネリと知り合う機会を得たコロンブスは、彼と手紙の交換をしているうちに、その学説に心酔していった。こうして、コロンブスは地球が球体であれば、インドへ行くにはヨーロッパから真っ直ぐ西に行くのが近道だと考えるようになった。
コロンブスがこう考えたのは、一つにはマルコ=ポーロの『世界の記述』の影響である。彼はその名の通り敬虔なクリスチャンで(クリストフォロは「キリストを運ぶ者」の意味)、聖書の経外書エスドラス書に、「3日目には汝は水を大地の第7の部分に集め、残りの6つの部分を乾き上がらせよ」とあることから、地球の表面の6/7は陸地で、海は残りの1/7だけだと考えていた。
彼はマルティン=ベハイムの世界地図から計算して、地球の円周360度のうち、280度がアフリカからアジアに至る陸地で、大西洋は残りの80度足らずであり、カナリア諸島から東アジアまでは、約6400キロと考えた。
彼はマルティン=ベハイムの世界地図から計算して、地球の円周360度のうち、280度がアフリカからアジアに至る陸地で、大西洋は残りの80度足らずであり、カナリア諸島から東アジアまでは、約6400キロと考えた。
ポルトガル国王ジョアン2世
1484年頃、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に航海のための援助を請うたが、王は表面ではこれを拒み、密かに彼の部下をしてコロンブスの提案した航海計画を実施、功を奪おうとした。これは失敗に終わったが、コロンブスはこの裏切りに憤慨し、弟バルトロメウをイギリスに送り、ヘンリ7世の援助を求めたが成功しなかった。
1486年、コロンブスはコルドバでフェルナンド5世とイサベル女王に謁見した。コロンブスの話にフェルナンド5世はあまり興味を持たなかったが、イサベルは引きつけられた。しかし、当時グラナダ攻撃に費用がかかり、財政的に余裕がなかったので取り上げられなかった。
そのグラナダが1492年1月2日についに陥落する。これで勢いを得たイサベルはフェルナンド5世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。この時、スペイン王室を説得することを諦めたコロンブスは、まさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、ピノス=エンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。
1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ=フェでコロンブスはスペイン王室と契約を結んだ。その内容は、① コロンブスは発見された土地の終身提督となり、この地位は相続される。②コロンブスは発見された土地の副王及び総督の任に就く。③提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。④提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。⑤コロンブスが今後行う航海において費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする、というものだった。
サンタ=マリア号
1492年8月3日、3隻の船団がパロス港から西方に向かった。旗艦サンタ=マリア号(100トン)には40人、続くピンタ号(60トン)に26人、ニーニャ号(50トン)には24人、合計90人が乗り込んだ。
一行はいったんアフリカ海岸を北緯28度まで南下し、カナリア諸島のゴメラに寄港。そこの女領主ベアトリスの協力を得て、大航海の準備を整えた。再出港は9月6日である。西航すること30日余り、副官のピンソンを初め船員たちは、疑いをいだきつつも、コロンブスの厚い保証を信頼して、大西洋を西航した。
しかし、藻に取りつかれて船足は遅く、羅針盤も狂って、船員の間には次第に不安が募っていった。コロンブスの第1回の航海図を見ると、新大陸に近づくにつれ、それまでの真西一直線の進路が急に乱れて急角度のジグザグ形になっている。海の果てには大洋の水が全部滝のようになって奈落へ落ちるとか、ずべての船を飲み込む大渦が巻いていると信じていた船員が、コロンブスを剣で脅して航路を曲げさせたからである。
10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。そして10月11日の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫がついに陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン=サルバドル島と名づける。「サン=サルバドル」は「聖なる救世主」とう意味で、まさにコロンブスにとっては救世主となった島であった。コロンブスはこの地をインディアスの東のはずれにある半島状の土地であると確信し、現地人をインディオと呼んだ。
ハイチに上陸するコロンブス
コロンブスはピンソンらを率いて上陸し、十字架とスペイン王旗を立て、大地に跪いて神に感謝した。この瞬間が彼の生涯における最良の一刻だった。それから約2カ月間、彼はカリブ海のキューバやハイチなど各地を探検し、特に後者はジパングと考えた。
11月21日、ピンタ号が脱走した。ハイチ島滞在中、サンタ=マリア号が大破し、彼は船材を引き上げて要塞を造り、40人余りの部下を残して引き揚げることにした。リスボンに帰着し、両王を追ってバルセロナに回航し、航海の成功を報告したのは、翌93年の1月である。大喜びの二人は、コロンブスに、本人の希望通り「大洋の提督」と「インド副王」の称号を与えた。
11月21日、ピンタ号が脱走した。ハイチ島滞在中、サンタ=マリア号が大破し、彼は船材を引き上げて要塞を造り、40人余りの部下を残して引き揚げることにした。リスボンに帰着し、両王を追ってバルセロナに回航し、航海の成功を報告したのは、翌93年の1月である。大喜びの二人は、コロンブスに、本人の希望通り「大洋の提督」と「インド副王」の称号を与えた。
ところが実は、パロス港に着く9日前に、コロンブスはポルトガルに寄り、先にジョアン2世に「インド発見」の模様を語っているのだ。スペイン国王のために行ったこの航海の成功を、なぜライバルのポルトガル国王に真っ先に報告したのか。その謎は分からない。確かなことは、まだアフリカ回りのインド航路を発見していないポルトガルが焦りだしたということだ。
他方、スペイン国王は、ポルトガルに出し抜かれるのを恐れ、半年後の9月25日にはコロンブスに第2回航海を行わせた。今度は、17隻、乗組員は1500人。聖職者・官吏・技術者・職人・植民者などが船員以外に加わった。明らかに、スペイン人の植民と住民のキリスト教への改宗、という事業を考えた航海であった。
エスパニョーラ島に到着してみると、残留部隊は全滅していた。またエスパニョーラ島の奥地まで進んだが、黄金も見つからず、開拓もままならなかった。コロンブスは小アンティル諸島・ドミニカ・ジャマイカなどに到達したが、現地人虐待の疑いで本国に召還された。
コロンブスは罪を免れたものの、コロンブスの率いるスペイン軍が現地人に対して徹底的な無差別殺戮を繰り返したのは事実である。まるでスポーツのように、動物も鳥も現地人も、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。
1498年5月、コロンブスは6隻の船を率いて第3回の航海に出発した。一行は8月にサンドミンゴに入港したが、留守中、コロンブスの代理で残っていた弟バルトロメウに対する入植者の不満が高まっていた。思ったほどの富が無く、食糧も不足してからである。弟にはそれを収める力が無く、反乱状態となっていた。その状態は本国にも知らされ、国王は99年に現地調査官としてポバディリャを派遣した。ポバディリャは提督の館に乗り込みコロンブスを逮捕し、コロンブス兄弟は鎖に繋がれて1500年に本国に送り返された。コロンブスの必死の訴えで西インドに戻ることは許されたが、提督の地位は剥奪され代わりにオバンドが任命された。
失意の中、1502年僅か140人でカディス港を出港、最後の航海に向かった。サンドミンゴへの入港は禁止されていたさらに西に向かい、大陸へのルートを探り、現在のコスタリカとパナマ沿岸を探検、一時はパナマ地峡にも上陸したが、ついに新大陸であることは気づかなかった。嵐や座礁など難航を続けてジャマイカを経て帰途につき、1504年11月に帰国した。
その直後の11月20日、彼の最大の理解者であったイサベル女王が亡くなり、その後にコロンブスと面会したフェルナンド5世は冷たい態度だった。コロンブスは国王に裏切られた思いを抱きながら、1506年5月20日、セビリャの侘びしい船員宿で、マラリヤの後遺症と通風のため54歳で亡くなった。
コロンブスは、自分の到達した土地はアジアであり、現在のインドよりも広い概念としてのインド、つまりインディアスと信じていた。しかし、同じころスペイン王・ポルトガル王の派遣した船団で何度かこの地を探検したアメリゴ=ヴェスプッチは、この地がアジア大陸とは別な大陸であると主張し、1507年にはこの地はアメリカ大陸といわれるようになった。
しかし、大陸の発見者はコロンブスであるという認識も強く、アメリカ大陸のことをコロンビアということも多い。なお、アメリカの首都をワシントンD.C.(Washingon District of Columbia )というのもコロンブスの名に由来する。またシモン=ボリバルが建国した南米の国家にも大コロンビアという名が付けられた。
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