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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー未知なる大陸への挑戦・マゼラン

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マゼラン

 マゼランはポルトガルの下級貴族であったが、初代インド総督アルメイダの指揮下で軍務についてインド・東南アジアに赴き(1505~11年)、ポルトガルがインド洋の制海権を得たディウ沖海戦にも参加した。帰国後、モロッコ遠征に参加して負傷したが、現地人との違法取引を国王マヌエル1世に疑われて(真相は不明)昇進も年金増額も拒否されたため、ポルトガルを離れてスペインに渡った。

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カルロス1世(皇帝カール5世) 

 1517年の秋、マゼランはスペインのカルロス1世に会い、西回りでモルッカ諸島に行くことを提案した。若いカルロス1世は大いに喜んで、この男の冒険に賭けることにした。コロンブスの発見したアメリカは香辛料を提供せず、ライバルのポルトガルは着実にアジアに進出、1514年からモルッカ諸島での香辛料貿易を開始している。スペインにとってポルトガルによる香辛料独占は、とうてい我慢のできるものではなかった。1494年のトルデシリャス条約には地球の裏側での取り決めは含まれておらず、アジアは依然として未知の地であった。トルデシリャス条約での分界線を東半球に延長すれば、モルッカ諸島はスペイン圏に入るのではないかと考えたのである。

 カルロス1世はマゼランとの間に、①マゼランは西回りでモルッカ諸島に達すること。②成功したら、マゼランとその子には提督の称号を与える。③新発見の島の収入の1/20を与える。④政府は5隻の船と船員、2年分の食料を準備する等の調印を交わした。

トリニダート号 
トリニダート号

 1519年9月20日、マゼランは5隻の船を率いて、スペインのサン=ルカール港を出帆した。旗艦トリニダート号(120トン)にマゼランが乗り込み、サン=アントニオ号(120トン)、コンセプション号(90トン)、ヴィクトリア号(80トン)、サンチャゴ号(70トン)がこれに続いた。船は老朽船で船員の国籍もまちまちだったが、マゼランは成功の確信を持っていた。

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 カナリア諸島までの6日間の航海は順調だったが、やがて10週間がかりの大西洋横断で最初の反乱が起こった。反乱はポルトガル人であるマゼランとスペイン人船員との間の不和と対立が原因であった。途中烈しい嵐にも見舞われたが、12月の中頃にリオデジャネイロに着き、さらに南下して翌年初めにラプラタ湾に入った。マゼランは初めここから太平洋への水路があると考えていたので、23日間も探検したが無駄だった。そのまま南下して3月末にサン=フリアン湾に着き、ここで越冬することにした。

 サン=アントニオ号のカルタヘーナは越冬に反対して反乱を企てたが、マゼランは断固として鎮圧し、カルタヘーナを奥地に追放して決意の固いことを示した。

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 船団は5カ月間もサン=フリアン湾に釘づけされていた。南半球の冬が終わると、マゼランはまずサンチャゴ号を偵察に南下させたが、船は急な潮流に流されて舵をとられ、岩にぶつかって大破してしまった。8月24日、船団は南下を始めたが、サンタ=クルス川でさらに2カ月停泊し、水や魚を補給した。10月18日に再び南進し、3日後に奥深い湾を発見した。マゼランはトリニダート号とヴィクトリア号を一組とし、サン=アントニオ号とコンセプション号を一組として迷路の奥を探検したが、ここでサン=アントニオ号は密かに脱走して帰国してしまった。

 全長560キロの細長く曲がりくねったこの海峡の突破は、なかなか大変だった。さすがのマゼランも11月21日には引き返そうかと考えたほどだった。しかし、2隻のボートはついに太平洋への出口を発見した。11月28日、とうとう船団は最後の岬を突破し、当時は「南の海」と呼ばれていた広大な海に滑り出た。マゼランは喜びのあまりはらはらと涙を流し、この岬に「待望岬(カボ=デ=セマード)」と名づけた。

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 こうして残った3隻の船はついに未知の大洋に入ったが、歓喜の後には恐ろしい苦難が待ち受けていた。マゼランは寒い南極圏から逃れるため、南米の西岸沿いに1600キロ北上し、そこから西北に進路をとった。マゼランは、このヨーロッパ人が初めて乗り出した海で、大きな嵐に遭わなかった幸運を喜び、この海を「平穏の海」と呼んだので、太平洋(マール・パシフィコ)と名づけられた。しかし、不幸なことに、彼は広い太平洋をほとんど海ばかりのコースを進み、マリアナ群島まで、ついに98日間も島らしい島にぶつからなかったのだ。

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 かくて恐ろしい飢えと渇きの航海となった。暑さは烈しく、船のアスファルトは溶け、飲料水は桶の中で腐った。新鮮な食料は何も無くなり、ビスケットは粉屑で、蛆虫がうじゃうじゃしていた。帆桁の牛皮、鼠が高い値段で取引された。ビタミンC不足からくる壊血病に見舞われ、19人が死に、30人が重病で、完全な人はほとんどいなかった。

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グアム島のマゼラン上陸記念碑

 1521年3月6日、マゼランはマリアナ群島を発見し、現在のグアム島でバナナや椰子の実を食べ、ほっと一息ついた。島民は親切だったが何でも手当たり次第盗むので、この島に泥棒島と名づけた。ここに3日いて充分に水と食料を積み、さらに西方に向かい、3月16日にフィリピンのサマル島、3月28日にレイテ島南方のマッサワ島に着いた。

 ここで船に近づいてきたカヌーの男たちと、マゼランがかつてマラッカから連れてきた奴隷エンリケはすぐ言葉が通じた。この男は、地球を一周して、再び自分の言葉のわかる地域に帰り着いたのだ。それは人類史上、忘れることのできぬ重要な瞬間だった。この瞬間にマゼランは航海の成功が目前にあることを知ったのである。

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  4月7日セブ島に達したマゼランはまずは大砲を撃ってセブ島民を驚かせ、上陸したマゼランはセブ王が付近の王たちの中でも有力であることを見て熱心に布教を始める。マゼランが熱心に説くキリスト教の教えにセブ王をはじめ500人が洗礼を受けた。また、マゼランとセブ王は何度も抱き合うほど親しくもなり、このことに気を良くしたマゼランはセブ島周辺の王たちにもキリスト教への改宗と(先にキリスト教徒になった)セブ王への服従を要求するようになる。いわば現地の政治情勢に到着したばかりのマゼランが首を突っ込んでしまったのである。

 セブ島に3週間滞在しセブ王の王宮にもたびたび招かれ食料を補給し多くのセブ島民を改宗させたマゼランだが、何故か目的のモルッカ諸島へ向かわず布教を続けている。セブ島民を改宗させたことで気をよくしたマゼランは強硬になり布教に当たって武力をちらつかせるようになった。セブ島周辺の王たちのほとんどはマゼランに従ったが、改宗と服従を強要するためにセブ島対岸の小島マクタン島では町を焼くこともしている。

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マクタン島のラプ=ラプ像

 このことでマクタン島民は反感をつのらせたようである。その後マゼランは4月27日マクタン島に突然出撃した。艦隊に同行したピガフェッタによると、マクタン島の王の一人ズラは「マゼランの要求に従う気はあるが、もう一人の王ラプ=ラプが従わないので困っている。小艇に兵を満載して救援に来てほしい」と伝えてきたからだとしている。

 これを聞いたマゼランはラプ=ラプ王を従わせようと3隻の小艇に60名の兵を乗せてマクタン島に乗り込んだのだが、ラプ=ラプ王は既にこれを察知しており、60名の内11名を小艇の警護に残して上陸したマゼランの49人に対して1500人の軍勢を配置していた。

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 しかし、マゼランは圧倒的に多数の敵を前にして部下に 、「諸君、われらの敵であるこれらの住民たちの数に恐れをなしてはならない。神が我らを助け給うであろうから。諸君、思い出すがよい、あのエルナン= コルテス隊長がユカタン地方で、200人のエスパニャ人でもって、しばしば20万、30万の住民たちを打ち破ったということを我々が耳にしたのはつい最近のことではないか」と演説し、寡兵にもかかわらず戦闘に突入した。

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 しかし、30倍の数の敵に対しマゼランの兵はやがて敗走、マゼランの周りにはピガフェッタやエンリケを含め6から8人ほどが踏みとどまって戦うだけになる。多勢のラプ=ラプ王の兵の竹槍はマゼランたちの甲冑に通じず戦いは1時間に及んだが、ラプ=ラプ勢は防具をつけていない足に攻撃を集中し始め、遂にマゼランは戦死した。僅か41歳だった。

 マゼランの死後、艦隊はマゼランの親族に当たる者を後継の指揮官にしていたが、後継の指揮官を含め艦隊幹部24人のほとんどが、気の変わったセブ王に殺された。もはや艦隊には115人しか残っていなかった。そこで、コンセプション号は焼き捨て、トリニダート号とヴィクトリア号だけで南進し、1521年11月6日、やっとモルッカ諸島に着いた。

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復元されたヴィクトリア号

 12月18日、2隻の船はモルッカから出帆しようとしたが、トリニダート号は積荷の丁字(クローブ)が重すぎて浸水したため、修理のために54人の乗組員と島に残り、ヴィクトリア号だけが47人の船員と現地人10数人を乗せて出帆した。

 ポルトガル船の襲撃を恐れ、インド洋の南を迂回したヴィクトリア号は、5月6日にやっと喜望峰を回ったが、この辺りはどこもポルトガル領だったので寄港できず、飢えと壊血病でさらに21人が死んだ。

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マゼランとデル=カーノ

 ヴェルデ岬諸島で、とうとう食料と水の無くなったヴィクトリア号は入港した。指揮官のデル=カーノはブラジルの帰りだとポルトガルの役人を信用させたが、ある水夫の不用意な話からマゼランのことがばれ、デル=カーノは上陸した13人の水夫を置き去りにして出帆した。

 1522年9月6日、一行はようやくの思いで、サン=スカール港に入港した。彼らの出発は1619年9月20日だったので、この最初の世界周航はほとんど丸3年かかっており、5隻265人のうちで、ヴィクトリア号1隻と18人の人が奇跡的に助かったのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/12/08 05:22 】

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