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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーアステカを滅ぼした男・コルテス

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ベラスケス

 コロンブスの西インド発見以後、スペイン人は黄金を求めて、次々に周辺を探検していった。1517年、キューバ総督のベラスケスはコルドバやグリファルパを送って、メキシコの探検を始めたが、インディオの猛烈な抵抗に追い返された。

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コルテス

 そこでベラスケスは強力な遠征隊を送ることとし、ヘルナン=コルテスを隊長に、帆船11隻、兵士500人、馬16頭、銃50丁、大砲10門からなる遠征隊を出発させた。

 コルテスは貧困貴族の家に生まれ、18歳で海を渡ってサント=ドミンゴ・キューバなどで働き、当時はベラスケスの秘書官を努めていた。

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コルテスの遠征路

 1519年4月、コルテスはアステカの都に近い海岸に上陸し、ここにメキシコ最初の基地ベラクルス(真実の十字架)を建設した。コルテスは劇的効果を狙った深謀遠慮を以て乗ってきた船を悉く焼き払って背水の陣を敷き、8月の半ばに僅か400人の兵士を率いて未知の大敵に挑むべく壮途に就いた。

 まず好戦的なアステカ人の宿敵であるトラスカラ人と3度にわたって戦ってそれを屈服させて味方につけた。トラスカラ人はこの時以来、スペインの征服者たちの忠実な友人となった。当時、過酷な税制によってアステカ支配下の諸民族は不満を強めており、これがコルテスらの軍と同盟を結ばせる動機となった。彼らの助力なしには、コルテスは決してアステカを打倒できなかったと言ってよい。

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チョルーラの虐殺

 コルテスの率いるスペインの遠征軍は、抵抗するインディオを排除しながら進撃したが、その過程での虐殺行為は同時代の宣教師ラス=カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』によって告発されている。スペイン人たちが行った数々の虐殺の中で、とりわけ有名なのは3万人以上の人々が暮らしていたチョルーラという大きな町で行なわれたものである。

 チョルーラおよびその周囲の(インディオの)領主たちはみな、大神官が率いる神官全員の行列を先頭にして、丁重に、しかも、恭しくキリスト教徒たちを出迎えた。……スペイン人たちはその場で彼らを虐殺、(スペイン人の言葉を借りれば)懲らしめようと心に決めた。司令官のコルテスは、荷担ぎ人足という口実で5000~6000のインディオを邸の中庭に集め、恥部を皮で覆い隠しただけのほとんど裸同然で子羊のようにじっと屈んでいるだけの彼らに対し、スペイン人たちに襲いかかるよう命令した。インディオが突き殺されていく間、コルテスは「ネロはタルピアの丘より炎に包まれているローマの光景を眺める。老いも若きもみな救いを求めて泣き叫ぶ。だが、ネロはいささかの憐れみの情も抱かない」と口ずさんでいたそうである。


 チョルーラの虐殺にアステカは震え上がった。
 
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 同年11月初めに都テノチティトランに到着、湖の上に築かれた壮大な都市を見て兵士は仰天する。町の入口には、国王モクテスマがみずから金の輿に乗り、多くの廷臣を従えてキリスト教徒の到着を待っていた。王はコルテス一行を平和裡に迎え、歓呼の声で市内に入った。しかしコルテスは、奸計を以て王の身柄を抑え、スペイン兵の監視下に置き、全土から莫大な量の金銀の細工品を集めさせた。

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テノチティトラン

 ところが、ここでコルテスは危機に見舞われた。キューバ総督は、コルテスがベラクルスで独立したので、ナルバエスに1000人の兵士を与えて追討させたのだ。しかし、コルテスは追討軍を打ち破り、その大部分を味方にして、またテノチティトランに引き返した。しかし、この間にコルテスに兵120名とともに留守を任されていたアルバラードたちが、祭典中のアステカ人たち600人を虐殺したことから、激怒したアステカ人たちが反乱を起こしていた。1520年6月29日、コルテスは反乱を起こしたアステカ人たちを国王モクテスマに説得させようとした。モクテスマは王宮の塔に出てアステカの兵士の前に立ったが、雨のような石と投げ槍が投げられ、国王の頭部や胸部を直撃した 。最初は致命傷には見えなかったが、翌日には傷が元で息を引き取った。

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モクテスマ
 モクテスマの死はコルテスにとって手痛い誤算となった。彼を喪っては、全市を敵に回して孤立した侵略者の一団に残された路は只一つ、一刻も早く逃げ出すことしかなかった。この脱出行は莫大な損害を被りつつ遂行された軍事史上最も困難な作戦の一つであった。西側堤道を本土へ向けて突破する夜間行軍では、スペイン人とその同盟者トラスカラ人は1フィートごとに猛り狂った敵の包囲攻撃を受けた。この夜(1520年6月30日)は余りにも凄惨を極めたたため、以後長く《ノーチェ・トリステ》(悲嘆の夜)として知られ、約1000人のスペイン人が死亡している。

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クアウテモック

 テノチティトランを脱出したコルテス一行は、7月7日オトゥンバ谷で追撃してきたアステカ軍に追いつかれるが、逆にこれを大破し、アステカ軍はテノチティトランに引き返した。7月12日、トラスカラに到着したコルテスはテノチティトラン再征服の為の軍備を整えた。 

  一方アステカ人はモクテスマ2世のあとに新王クイトラワックを選んで団結していたが、スペイン軍が持ち込んだ天然痘が蔓延して、10月には在位わずか80日でクイトラワックは死亡し、かわって25歳の勇敢な戦士クアウテモックを王に推戴した。
 
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 1521年の始めコルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3カ月以上の攻防の末、8月13日にテノチティトランは陥落し、クアウテモックは捕らえられた。

 クアウテモックはコルテスの短刀を指さして自分を殺すように言ったが、コルテスは彼を殺さず、勇者として手厚くもてなした。しかしそれは始めのうちだけで、黄金の場所をつきとめるためにコルテスは彼を拷問にかけた。1525年2月28日、反乱を企てたとの疑いにより、クアウテモックはコルテスによって絞首刑に処された。

 コルテスは、1523年、国王カルロス1世(カール5世)からヌエバ(ノヴァ)=イスパニア(メキシコ)総督に任命され、副将アルバラードにグアテマラ征服を命じ、さらにオリードをホンジェラスに派遣した。しかし、オリードが反旗を翻すなどの事件があって免職され、26年に一時スペインに帰国した。その後ノヴァ=イスパニアにもどり、1533年には太平洋岸を北上し、彼の派遣した艦隊がカリフォルニアを発見、1536年には自ら航海に参加してカリフォルニア半島の南東部にラ・パスの町を建設した。1540年にスペインに帰国してからは、その功績も忘れられ、1547年、失意のうちにセビリアの近くで病死した。

  コルテスの征服者としての成功体験は、約10年後のピサロによるインカ帝国の滅亡にも生かされていた。あるときピサロが先輩コルテスにインディオとの戦いのコツを聞いたところ、コルテスはまず王を殺すことだ、そうするとインディオは抵抗しなくなる、と教えたという。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/12/11 05:42 】

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