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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーミイラになった征服者・ピサロ

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フランシス=ピサロ

 フランシスコ=ピサロの素性はよくわかっていないが、1478年にスペインのエストレマドゥラで私生児として生まれた。父ゴンサロ=ピサロは歩兵大佐であったが、母は街の売笑婦であったと伝えられている。彼は偶然コルテスと同郷であった。しかし、コルテスが貴族の生まれで、ともかく大学で勉強したのに、彼は読み書きを習ったことが無く、豚飼いが本職であった。

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バルボア

 コロンブスによる「発見」以来、一旗あげようという連中が続々と新大陸にわたったが、ピサロもその一人となった。パナマで太平洋の発見者バルボアの部下となったが、バルボアが1515年に逮捕された時に総督と知り合う機会を得て、バルボア死後は総督の軍事遠征に加わり、頭角を現した。

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ディエゴ=デ=アルマグロ

 ペルラス諸島滞在中に黄金郷ペルーの情報を得て、探検家ディエゴ=デ=アルマグロと共に、1524年と1526年の二度にわたり南アメリカを探検し、苦労の末、都市トゥンベスまで進んだ。その都市は、広大な領土を保有する国の一部であることを発見した。

 「黄金郷」インカ帝国の存在を確信したピサロは、1528年いったんスペインに戻り、国王カルロス1世にペルーのことを報告した。カルロス1世は大変喜んで、征服に成功したら彼をペルーの総督にし、入手した財宝の1割を与えようと約束した。1530年にピサロはパナマに帰り、コルテスと相談した。彼の話を聞いたコルテスは多くの援助を与え、インディオの攻め方をいろいろ教えてくれた。

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アタワルパ

 1531年2月、ピサロは3隻の船に180人の兵士と27頭の馬を乗せ、パナマからペルーに向かった。目的地はトゥンベスだったが逆風のため進めず、兵士はサンマテオ湾から海岸沿いに南下し、サンミゲルに基地を建設した。インカ帝国は高度な国家機構を持ち、道路網も整備されていたので、ピサロの率いるスペイン軍も進撃しやすかった。

 その頃、インカでは第11代の皇帝ワイナ=カパクの死後、王子のワスカルと側室の子アタワルパの間で王位を巡る争いが起こり、アタワルパが勝利を収めた直後であった。彼はワスカルを捕らえてクスコに幽閉し、新しく都をカハマルカに建設した。

 ピサロはコルテスの例にならい、まず皇帝アタワルパを捕らえようと考え、1532年11月15日、歩兵110人、騎兵67人を連れてカハマルカに向かった。ピサロは皇帝に使者を送り、スペイン軍は皇帝の勝利を祝い、ペルーに真の宗教を教えるために来たと述べ、どうかスペイン軍を訪問するとうにと勧めさせた。

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 そこで、翌11月16日、アタワルパは5000人の護衛兵を連れて豪華な輿に乗り、接見の場にやって来た。周りには3万人のインディオ兵が控えていた。しかし、彼はまんまとピサロの罠にはまったのだ。従軍司祭がアタワルパにキリストの教えを受け入れるかと問い、聖書を手渡した。アタワルパが憤然として聖書を投げ捨てると、この「冒涜」を口実に、火砲で武装したスペイン騎兵の攻撃が開始され、銃声と馬の蹄の音がカハマルカの町を振るわせた。インディオの大軍はバタバタと斃れ、あたりは血の海になった。

 信じられないことが起こった。わずか200人のスペイン兵が5000人のインディオ兵をなぎ倒したのだ。小銃と騎兵の威力がこれほどはっきり示された戦いは、かつてなかった。ピサロは玉座に躍り上がってアタワルパを虜にした。

 無題

 こうしてアタワルパは囚われの身となったが、その取り扱いは決して厳しくなかった。アタワルパはピサロに、「もし私を自由にしてくれるなら、この部屋を黄金でいっぱいにしてやる」と申し出て、黄金を積み上げる高さを示したと言われている。ピサロは2ヶ月間に集めるという条件で、この申し出を認めた。皇帝の身代金として一部屋分の貴金属が運び込まれた。

 ピサロは集まった財宝を戦利品として分配した。このとき溶解された貴金属は金塊が132万6539ペソ、銀塊が5万1610マルコ(1マルコは230グラム)であった。ここからカルロス1世の取り分を除き、ピサロには5万7220ペソの金塊と2350マルコの銀塊が配分された。ピサロはまたアタワルパが使用していた黄金の輿(純金製で重さが83㎏)を自分のものにした。その後、首都クスコでも太陽の神殿などの財宝を奪い、他の町でも略奪を行った。これらの略奪された財宝は溶解された金塊・銀塊として大西洋を越えてセビリアにもたらされた。

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アタワルパの死

 アタワルパは釈放を要求したが、ピサロはインカの人々の復讐を恐れて釈放できなかった。ピサロの弟のフェルナンドらは、すぐ釈放すべきだと言ったが、ピサロは結局、兄弟殺しの罪と反乱罪で、1533年7月26日、アタワルパを絞首刑にした。アタワルパは自身を「太陽の子」と信じ、いつか復活して報復すると誓いつつ死んで行ったと言う。

 これによりインカ帝国は滅亡した。その年の11月、ピサロは480人の兵士を率いて首都クスコに入城した。美しいクスコの町は、たちまち略奪と暴行の町になった。神殿も王宮も町の家々も荒らされ、金目のものは皆剥ぎ取られた。ピサロはクスコの統治は弟たちに任せ、自らは海岸地方に下りて新都リマを建設した。

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処刑されるアルマグロ

 ピサロの盟友アルマグロは、1535年からチリ遠征に出かけたが、チリにはめざす金銀もなく、2年後にやっとクスコに帰ってきた。アルマグロはインディオの反乱軍を破ってクスコを占領し、リマに本拠地を置くピサロと対立するようになった。1538年、ピサロとアルマグロは、クスコ近くのラスサリナス平原で雌雄を争った。いざとなるとスペイン兵の多くはピサロにつき、アルマグロは敗北を喫して捕らえられ、絞首刑に処せられた。

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ピサロの棺

 戦いに勝利したピサロではあったがスペイン本国の支持を失い、1536年にはカルロス1世にアタワルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告され、結局1541年6月26日にアルマグロの遺児ディエゴとその仲間にリマで暗殺された。埋葬されなかったピサロの遺体はロマの大聖堂にミイラとして現在も残されている。 

 この血なまぐさい殺し合いは果てしなく続いた。ディエゴはピサロの弟ゴンサーロに殺され、ゴンサーロは本国から送られたガスカに殺された。探検と遠征に死に物狂いで戦ったコンキスタドール(征服者)たちは、こうして互いに殺し合い、結局、植民地はスペイン王室の手中に帰したのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/12/15 05:36 】

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