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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー華麗なる一族・メディチ家

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メディチ家の紋章

 フィレンツェの大富豪メディチ家は、13世紀ごろからフィレンツェで薬屋を営み財をなしたらしい。その紋章の赤い6つの玉は、丸薬を示す看板だったと言われている。

 14世紀末には銀行業を営み、全ヨーロッパにも知られ、主要な町に支店を置くようになっていた。特にローマ教皇の管財人となりその財産の管理にあたり名声を高め、またフランス王やドイツの諸侯などにも融資している。後にその紋章の6つの赤い玉の上に、フランス王家の紋章である百合の花をつけることを許されている。

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ジョバンニ=ディ=メディチ

 ジョバンニ=ディ=メディチは、共同経営者の一人としてローマで金融業を営んでいたが、1397年に故郷のフィレンツェに本拠を移し、資本金1万フィオリーナで銀行商会を設立した。これがメディチ銀行の実質的な創設であり、1420年までにローマ、ナポリ、ガエータ、ヴェネツィアなどに支店を設け、事業を拡大していった。当時は他にペルッツィ商会とバルディ商会の方がイタリア外にも支店を持って大きかったが、メディチ銀行は独自の経営形態を組織して、次第に大銀行に成長していった。

 メディチ銀行の最大の顧客はローマ支店が窓口となったローマ教皇庁であった。教皇庁からの収益は、1435年までの銀行の年収益の50%をつねに超え、1397~1420年までの純利益は7万9000フィオリーノにのぼっている。当時のローマ教皇庁は大シスマの渦中にあり、メディチ銀行は対立教皇の政治資金に融資し、双方から利益を得た。メディチ銀行は教皇庁の徴税事務や資金輸送を請け負い、ローマ支店長は教皇庁財務管理者に任命されてその財政に深く関わるようになった。

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ブルネレスキ

 ジョバンニは銀行業の利益を毛織物業に投資し、またその名声からフィレンツェ市政にも関与し、芸術を保護するパトロンとしても活躍し、サンタ=マリア大聖堂の大円蓋を完成させたブルネレスキなどが、その委嘱を受けて作品を製作した。ジョバンニはこのようにルネサンスの保護者としてのメディチ家の基礎を築いた人物であり、その仕事は子のコジモと孫のロレンツォに継承される。

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コジモ=イル=ヴェッキオ

 1429年にジョバンニが死去すると、新興勢力であるメディチ家に反発したフィレンツェの大商人たちが全市民大会を開いて、その子コジモを政府転覆の陰謀ありという口実で追放してしまった。しかしわずか1年で市民大会はコジモの召喚を決議、1434年にコジモはフィレンツェに復帰し、かえってメディチ家の支配権力が確立した。

 権力を握ったコジモは、メディチ銀行の支店をジュネーヴ、ブリュージュ、ロンドン、アビニョンに置き、毛織物・絹織物の事業を拡大、さらにヨーロッパ各地の商品を扱う総合商社としてその全盛期を迎えた。コジモは揺るぎない財力を背景に、彫刻家のドナテルロ、画家のボッティチェリなどの芸術家を保護し、また古典文芸の保護につとめてプラトン=アカデミーを創設した。

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メディチ=リッカルディ宮殿

 このとき一家は、フィレンツェのただなかに邸宅を構える。建築家ミケロッティ=ディ=バルトロメオに命じて完成した館は、今ではメディチ=リッカルディ宮殿として、偉容を誇る。その邸宅の一室に、画家ゴッツォリに注文した「三賢王の行列」フレスコ画が燦然と輝く。イエスの誕生を祝福すべく巡礼する賢王(マギ)と、それに従う群衆が描かれる。

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「三賢王の行列」

 3人の賢王は、それぞれメディチ家の3代の当主があてられる。中央左の白馬にまたがり赤い帽子を被っているのが老コジモ、ついでその子ピエロが、ともに騎乗して進む。制作当時の1459年、まだコジモは在世中であった。孫ロレンツォは、この時まだ10歳、ほんの少年である孫は、もっとも美麗な乗馬姿であらわされる。黄金につつまれたロレンツォに、メディチ家の遠大な希望が託されていたことがわかる。その通りになった。

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ロレンツォ=イル=マニフィコ

 ロレンツォは1469年に「国家の長」の地位についたが、一時反メディチ勢力による襲撃事件などもあって動揺した。しかし祖父の財力と名声でフィレンツェの実権を握り、またギリシア・ローマの文芸や芸術作品を収集するなど、ルネサンスのパトロンとして重要な働きをした。

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サヴォナローラの火刑

 1492年にロレンツォが43歳という若さで病死すると、フィレンツェでは反メディチ家を掲げる共和派が発言権を増し、しかもルネサンス的な華美な風潮を非難するサヴォナローラが登場して不安を煽るようになった。おりから、1494年にイタリア戦争が勃発、フランス王シャルル8世がフィレンツェを攻撃したため、メディチ家はフィレンツェから追放され、サヴォナローラの神権政治が行われる。しかし、サヴォナローラはローマ教皇から異端と断定されて急速に民衆の支持を失って火刑に処せられた。

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ジョヴァンニ(教皇レオ10世)

 メディチ家が再び戻るのは、1512年である。苦難は絶えなかった。一族の努力がみのって、ロレンツォの次男ジョヴァンニがローマ教皇レオ10世として即位するのは、1513年。ようやくメディチ家は国際政治での認知を保証される。

 レオ10世は1517年、サン=ピエトロ大聖堂の修築のためにドイツで贖宥状を発売し、それを批判したルターによる宗教改革が始まることとなる。また、そのころフランス王と神聖ローマ教皇の対立が激化してイタリア戦争が再燃、ローマ教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)がフランス王と結んだことから、1527年に神聖ローマ皇帝カール5世による「ローマの劫略」が行われれた。フィレンツェでも共和派が決起し、再びメディチ家が追放されたが、1530年フィレンツェに帰還し、再度復権する。

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 ピッティ美術館

 この頃、一族は手狭になったメディチ宮殿をリッカルディ家に譲り、アルノー川の対岸に新居を購入する。ピッティ家が所有する館である。これに大幅に改修をくわえて、フィレンツェ随一の宮殿に仕立てる。現在、ピッティ美術館となり、ラファエロの名作で知られる。

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ウフッツィ宮殿

 やがて、メディチ家は都市の共和制を廃止して、1569年にはトスカナ大公に即位する。王侯の地位におさまったのである。そのころウフッツィ宮殿が竣工した。メディチ家は、ピッティからウフッツィにいたる数百メートルに、専用通路を設けさせた。

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ヴァザーリの回廊

 暗殺の危機を防止するためと伝えられる。危機を危うくも逃れおおせたメディチ家らしく、僭越にして細心な手法である。この通路は「ヴァザーリの回廊」と呼ばれ、ヴェッキオ橋の二階部分をつらぬき、今も薄暗い回廊のまま保存されている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/12/18 05:39 】

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