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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー万能の天才・レオナルド=ダ=ヴィンチ

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レオナルド=ダ=ヴィンチ

 レオナルドは1452年4月15日、フィレンツ郊外の小さな村、ヴィンチ村で生まれた。その生家と言われる家が今でも残っている。

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ヴィンチ村にあるレオナルドが幼少期を過ごした家

 “ダ=ヴィンチ”とは、「ヴィンチ村の」の意味で、父親は公証人のピエロといい、レオナルドはその私生児であった。そのため満足な初等教育を受けられなかったらしく、左利きも矯正されず続き、彼自身も生涯ラテン語の理解には苦しんだという。

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ヴェロッキョ

 そのような境遇であったからか、彼は1469年ごろにフィレンツェに出てヴェロッキョの工房の徒弟として絵画、彫刻の修行をはじめた。そのころフィレンツェ共和国では、ロレンツォ=ディ=メディチの統治が始まっており、ルネサンスは後期の爛熟期となっていた。徒弟時代には、ブルネレスキが建設したフィレンツェのサンタ=マリア=フィオーレ大聖堂で未完のままであった約100mの高さの頭頂部に約2トンの青銅球を設置する仕事に成功し、工学的な経験を積んだ。また絵画でも師の作品を手伝い、技術を磨いた。そのころボッティチェリが『春』を発表して、一躍人気作家となっていたが、ダヴィンチは寡作であったためか評価は低かった。

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ロドヴィコ=スフォルツァ

 ダ=ヴィンチは30歳ごろ、失意のうちにフィレンツェを去り、ミラノに赴いた。ミラノは当時、ヴェネツィアと並ぶ強国で、ロドヴィコ=スフォルツァが政権を握っており、多くの学者や芸術家、技術家をその宮廷に抱えていた。ダ=ヴィンチは軍事技術者として自薦状を提出してミラノ公に仕えることとなり、あるときは音楽家(リラ演奏家)や余興係、あるときは都市計画者あるいは軍事技術者か水利工事監督者として活躍した。それらの仕事を完璧にするための思索ノートは後に『レオナルド=ダ=ヴィンチの手記』として出版されている。

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『最後の晩餐』

 芸術家としては、ミラノ公の先祖の騎馬像と聖フランチェスコ教会の「岩窟の聖母」の製作にあたったが、最も重要な作品、聖マリア=デッレ=グラツィエ聖堂の食堂壁画に『最後の晩餐』が描かれたのがミラノにおいてであった。縦4.2m、横9.1mの巨大な壁画で、遠近法を採り入れた緊張感ある画面となっている。

 1943年8月、ファシスト政権ムッソリーニに対抗したアメリカ軍がミラノを空爆し、スカラ座を含むミラノ全体の約43%の建造物が全壊する。その際にこの食堂も向かって右側の屋根が半壊するなど破壊されたが、壁画のある壁は爆撃を案じた修道士たちの要請で土嚢と組まれた足場で保護されていたこともあって奇跡的に残った。その後3年間屋根の無い状態であり、風雨にさらされないよう、また、壁だけで倒れないようそのまま土嚢を積まれてはいたが、この期間にも激しく損傷を受けている。
 
 1977年から1999年にかけて大規模な修復作業が行われた。この修復は洗浄作業のみで、表面に付着した汚れなどの除去と、レオナルドの時代以降に行なわれた修復による顔料の除去が行なわれた。その結果、後世の修復家の加筆は取り除かれ、レオナルドのオリジナルの線と色彩がよみがえった。

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シャルル8世

 1499年、イタリア戦争のさなか、フランス王シャルル8世がミラノに侵攻、そのときレオナルドが製造中の大騎馬像のための青銅は急遽大砲用に転用され、出来上がっていた原寸大模型はフランス兵の試し撃ちの標的にされ破壊されてしまった。ミラノはフランス軍の手に落ちロドヴィコ=スフォルツァは逃亡、途中捕らえられて哀れな死を遂げた。

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ミケランジェロ

 ミラノを離れたレオナルドは、ヴェネツィアなどを経てフィレンツェに戻り、メディチ家を追放して共和政を復活させたフィレンツェ共和国政府から、1503年に政庁の大広間に壁画「アンギアーリの勝利」の製作を依頼された。その時、同じ建物反対側の壁画は後輩のミケランジェロが「カッシーナの戦い」を制作することになり、二人の巨匠の対決となった。ミケランジェロは大作『ダヴィデ像』に取り組んでおり、若くして大家の仲間入りしていた。この二人の競作は、ダ=ヴィンチが画法で悩んで進まないうちに、ミケランジェロもローマに招かれたためにいずれも中断し、決着がつかずに終わった。

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『モナ=リザ』

 一方同じ1503年にはダレオナルドは『モナ=リザ』の製作を開始した。この作品は、そのモデルが誰か、何のために描いたのかなど、多くの疑問が残されている。また、4年ほどで完成したとされているが、レオナルドはこの絵を生涯放さず手もとに置き、いつも筆を加えていたという。フランソワ1世に招かれてフランスに行ったときにもレオナルドは『モナ=リザ』を携えている。現在のところ、モデルはリザ=デル=ジョコンダという商人の妻であったという説が有力である。

 1507年、フランス王ルイ12世はミラノに入城し、レオナルドは王室附画家に任命されて再びミラノに行った。この時期は平穏で、もっぱら科学研究と『聖ヨハネ』、『聖アンナ』などの作品に専心した。1512年にフランス軍がミラノから敗退、翌年レオナルドはローマ教皇レオ10世の弟ジュリアーノ=デ=メディチに仕えるためローマに赴いた。

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フランソワ1世

 1516年、ジュリアーノが亡くなったので、レオナルドはアルプスを越えてフランスに向かい、フランソワ1世の宮廷に仕えることとなり、アンボアーズ郊外のクルー城に住んで、フランス王の祝典の余興を考えたり、運河工事にあたったりした。

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『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』 ドミニク=アングル

 1519年5月2日、レオナルドはアンボアーズで客死し、同地のサン=フロランタン教会に葬られた。

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解剖図

 レオナルドは科学者、あるいは土木建築家としての一面もあり、潜水艦や飛行機、ヘリコプター、戦車などを構想し、人体の解剖も行った。また「リラ」という楽器の演奏にすぐれた音楽家でもあったとされており、ルネサンスの典型的な「万能人」であった。

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レオナルドのノート

 レオナルドの謎に「鏡文字」がある。彼が残した13,000ページにも及ぶノートすべてが、鏡に写した時の文字のように、裏返しの文字で書かれているのである。なぜそんな七面倒臭い書き方をしたのか。一つには彼が左利きだったでその方が書きやすかった、という理由があげられる。また、純粋に私的なノート、覚え書きだったので、あまり他人に読まれたくなかったから、という理由も考えられる。

 さらには、
「裏返し」になっていたのは文字だけではなく、図面やイラストもまた左右逆に描かれていたという事実から、初めから印刷されることを想定して書いたという説もあり、最近では彼が発達障害の一つであるスレクシア(失読症)であった可能性も高いと考えられおり、その謎はいまだ解明されていない。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/12/22 05:27 】

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