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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドールネサンス最大の巨人・ミケランジェロ

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ミケランジェロ

 ミケランジェロは1475年、フィレンツェ近郊の村で役人の子として生まれ、13歳の時、父の反対を押し切ってフィレンツェのギルランダイオという親方の工房に入り、石工となった。メディチ家の管理する古代彫刻庭園に出入りできるようになり、そこで見た古代の彫刻に見せられるようになり、少しずつ大理石を刻むようになった。

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ロレンツォ

 その時、メディチ家の当主ロレンツォの目にとまり、その館に住み込んで修業することが許された。そこでメディチ家に集まる、フィッツィーノやピコ=デラ=ミランドラなどの著名な人文学者から知的な刺激を受けたようだ。フィレンツェはルネサンスの爛熟期を迎えていた。若きミケランジェロは彫刻の前提として人体研究に興味を持ち、18歳ぐらいから人体解剖を始めている。

  ロレンツォが死んだ後、1494年にフランス王シャルル8世がイタリアに侵入、イタリア戦争が始まる。フィレンツェではサヴォナローラがメディチ家を激しく批判し、追放してしまう。保護者を失った19歳のミケランジェロもフィレンツェを脱出し、ボローニャに逃れた。一旦フィレンツェに戻った後、後に教皇ユリウス2世となる枢機卿に招かれ、1496年にローマに向かった。

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「ピエタ」
 
 ローマ滞在中の24歳のミケランジェロが製作した大理石彫刻のピエタは、その生き生きとしたマリアと死せるイエスの像が忽ち評判となり、鮮烈なデビュー作となった。イエスの母にしては若すぎるマリアであるが、悲しみを湛えて美しく、その衣服の下の身体は「古典的な女性美の頂点」と評される。イエスは左足をやや持ちあげており、死体であることがわかり、解剖学の知見によって生み出された「人間」の姿として横たわっている。

  この「ピエタ」のマリアが肩からさげる帯には全ミケランジェロ作品中唯一となる署名がある。ミラノから来た見物人がミラノの彫刻家の名前を挙げて自慢しているのを耳にしたミケランジェロが、夜こっそり自分の名前を刻み込んだという。

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「ダヴィデ像」

  フィレンツェではサヴォナローラが異端とされて処刑された後、動揺が続いていた。ようやく1502年、共和政体の維持を掲げたソデリーニが終身執政官に就任して安定を取り戻した。ミケランジェロもその前年にフィレンツェに戻っており、共和国政府から「ダヴィデ像」の政策を委嘱された。ずいぶん前から大聖堂(ドゥオーモ)に放置されていた巨大な大理石を使い、三年がかりで1504年に完成させた。ミケランジェロはまだ29歳であった。

 4メートルを超える巨像は、伝統にとらわれない姿――ヘブライ王国(イスラエル)を侵略しようとするペリシテ人の巨人ゴリアテを一騎打ちで倒した少年ダヴィデの像であるが、ゴリアテを組み伏せている図ではなく、右手に石を持ち、左手で投石用の革紐を肩に掛け、決然と敵を睨んでいる、戦う前の姿であり、しかも裸で立つという――だった。

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 出来上がった「ダヴィデ像」を見上げて、ソデリーニが「すばらしい、しかしちょっと鼻が大きすぎないか」と言ったところ、梯子を架けて上っていったミケランジェロは、鑿をたたくふりをしてあらかじめ掌に握っていた大理石の粉をパラパラと落とした。降りてきて、「あれでどうたい?」と尋くと、ソデリーニは「すごく良くなった」と満足した、という。

 ダヴィデ像は、メディチ家を追放し共和政を守ろうとするフィレンツェ民衆のシンボルとして、政庁(パラッツォ=ヴェッキオ)前のシニョリーア広場に置かれた。しかし1873年にアカデミア美術館の室内に移され、現在シニョリーア広場に置かれているダヴィデ像はレプリカである。


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教皇ユリウス2世

 「ピエタ」と「ダヴィデ像」で若くして名声を得たミケランジェロは、1505年にローマ教皇ユリウス2世に招かれてローマに行き、その墓廟を制作することになった。そのためのさまざまな彫刻をつくっており、『モーセ像』などが残っている。しかし、ユリウス2世は移り気な人で、墓廟用の大理石の代金を支払わず、ブラマンテに委嘱していたサン=ピエトロ大聖堂検知器に回してしまった。嫌気のさしたミケランジェロは、1506年、ローマからフィレンツェに帰ってしまう。

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システィナ礼拝堂

 墓廟に興味をなくしたユリウス2世は今度はヴァチカン宮殿の一部のシスティナ礼拝堂の天井画を描くことを思いつき、ミケランジェロに依頼した。ミケランジェロは本業は彫刻であるとしてラファエロを推薦するなどしたが、教皇は受け付けず、結局1508年5月~1512年10月までかかりっきりで完成させた。

 旧約聖書の創世記から、光と闇の分離、天体と植物の分離、地と水の分離、アダムの創造、イヴの創造、原罪と楽園追放、ノアの燔祭、大洪水、ノアの泥酔(?)とされる天地創造9場面を中心に、周りをさまざまな人物で埋め、フレスコ画の技法で描かれており、「描かれた大理石像」と呼ばれる。

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システィナ礼拝堂天井画

 システィナ礼拝堂の高さ21メートルの天井いっぱいに絵を描くことは想像以上に難事業であった。彼は足場台を工夫しなければならず、それには建築家としての技能が役立った。この天井画は天井全体を立体的に構成しており、絵画と建築、彫刻の総合芸術だったと言うことができる。4年もの間、天井を向いていたために、仕事が終わってからも手紙を読む時などは、みな頭の上にかかげて見なければならなかったという。

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「アダムの創造」

 天井画のうち最も良く知られているのが「創世記」のうちの「アダムの創造」である。神がアダムに向かって手を差し伸べ、神の手がアダムに生命を吹き込む場面が描かれている。このアダムについて、ミケランジェロの弟子ヴァザーリは述べている。「その美しさ、そのポーズと輪郭とは、あたかも人類創造のその瞬間、最初にして至高の創造主によって形造られたかのように見え、神ならぬ1人の人間が絵筆をもって描いたものとは見えない」。
 
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 写真は1982年公開のアメリカ映画『E.T.』のポスター。『E.T.』はスティーヴン=スピルバーグ監督の出世作となった作品。E.T.を乗せて空へと駆け上がる自転車、ふれあう指の先と先.....。もうお分かりだと思うが、監督は明らかに「アダムの創造」からヒントを得て、このシーンを考え出した。

クレメンス  
教皇クレメンス7世

 1513年、次の教皇となったレオ10世はメディチ家の出身であったので、ミケランジェロにフィレンツェに帰り、メディチ家礼拝堂(サン=ロレンツォ教会)を制作せよと命じた。その制作は延々と続き、1523年に教皇となったクレメンス7世(同じくメディチ家出身)の時にも継承された。

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「最後の審判」

 1533年、教皇クレメンス7世は、ミケランジェロにシスティナ礼拝堂の奥の壁に「最後の審判」を描くことを依頼した。1534年、58歳になっていたミケランジェロはフィレンツェを離れ、ローマに居を移した。この年、ローマ教皇はパウルス3世(トリエント公会議の主催など対抗宗教改革を推進した教皇)のもとで作業が進められることとなり、1541年に完成した。

 この壁画は、それまでにない巨大さと、ダイナミックな人物表現で人々を驚かせ、現代の見る人々をも驚嘆させている。中央のイエスとマリア以外にそれぞれ十二使徒など聖書の登場人物を描いていると思われるが、説明的ではないので誰が誰であるかは結局はわからない。

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ミノス

 この「最後の審判」のフレスコ画がほぼ出来上がったとき、それを見に行ったパウルス3世から意見を求められたヴァチカン宮殿の式典長ピァージョ=ダ=チェゼーナは、こんな性器を露出した裸体ばかりの絵は神聖な礼拝所にふさわしくないと非難した。それを聞いたミケランジェロは、地獄の番人ミノスの顔をこの式典長に似せて描いたというのである。異様な耳をしたミノスは全裸であるばかりでなく、大蛇に身体を縛られ、ペニスは蛇に喰いつかれている。ミケランジェロの陰惨なユーモアとしかいいようがない。

 ミケランジェロの「最後の審判」に対し、殉教者や聖なる処女を娼婦のような裸体で描いているという非難はその後も続いた。その非難はミケランジェロがルター派的であるというものだった。しかし、ローマ教皇パウルス4世が、もとのかれの弟子ヴォルテッラに命じてこの壁画の裸体に布を描きそえさせたとき、ミケランジェロは何も言わなかった。民衆は、それからヴォルテッラを“さるまた屋”と呼んだ。後に教皇クレメンス8世がまたこの壁画を塗りつぶさせようとしたときは、ローマの聖ルカのアカデミアが抗議して、これを行わせなかった。

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バルトロマイ

 中央のイエスの右下に描かれているのは、イエスの使徒の一人であるバルトロマイ
皮剥ぎの刑で殉教したといわれ、ミケランジェロも剥がれた自分の皮とナイフを持った姿で描いているが、この皮の顔はミケランジェロの自画像になっている。

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サン=ピエトロ大聖堂

 1546年にミケランジェロは、それまでブラマンテ、ラファエロらが40年以上にわたって続けてきた、ヴァチカンのサン=ピエトロ大聖堂改築の設計とドームのデザインを一任された。最終的にミケランジェロはドームの完成を待たずしてこの世を去っているが、存命時にはドーム下部と支持環まで着工済みであり、ドーム全体の基本的なデザインはすでに完成していた。

 ミケランジェロは1564年、88歳でローマで死去した。フィレンツェを愛したミケランジェロの遺言どおりに、遺体はローマからフィレンツェへと運ばれて、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬された。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/12/25 05:58 】

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