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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー聖母の画家・ラファエロ

ラファエロ 
ラファエロ 

 ラファエロは1483年に中部イタリアのウルビーノに生まれた。。父親はウルビーノを治めていたモンテフェルトロ家に仕える画家兼詩人であったが、ラファエロ11歳の時に亡くなった。その母もすでに8歳の時に亡くしている。孤児になったラファエロは若くしてペルージャの画家ペルジーノの工房に入り徒弟となった。ペルジーノはフィレンツェのヴェロッキオ工房に学び、レオナルド=ダ=ヴィンチの兄弟子にあたる人であった。
 
 1504年、21歳のラファエロはフィレンツェに移住した。そのころのフィレンツェは独裁者メディチ家を追放し、共和政国家を再建、ダ=ヴィンチ(51歳)とミケランジェロ(28歳)が活躍しているルネサンスの最盛期であった。

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「ベルヴェデーレの聖母(牧場の聖母)」

 ラファエロはダ=ヴィンチやミケランジェロの影響を強く受け、一連の『聖母子像』を描いて、「聖母の画家」としての名声を確立した。

 ラファエロは短期間に作品を仕上げる天才(その点でダ=ヴィンチが遅筆であったことと対照的)とされ、多くの注文主が殺到した。『聖母子像』など大量に残る作品はそのような注文によって描かれたものであるが、それはラファエロの工房で分業制によって描かれたものであった。

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教皇ユリウス2世

 1508年の終わりごろにラファエロはローマへと居を移し、結果として残りの生涯をローマですごすこととなった。ラファエロがローマを訪れたのは、ローマ教皇ユリウス2世からの招きによるものであり、おそらくは当時サン=ピエトロ大聖堂の建築を任されていた建築家で、ウルビーノ近郊のラファエロの遠縁ではないかと考えられているブラマンテからの推挙によるものだった。ローマ教皇の招致を受けてからも数ヶ月間ローマで逡巡していたミケランジェロとは違って、ラファエロはすぐさまヴァチカンへと向かい、ヴァチカン宮殿のローマ教皇の専用図書室のフレスコ壁画制作依頼を受けた。このローマ教皇からの絵画制作依頼は、ラファエロにとってそれまでにない程の極めて重要なものだった。

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教皇アレクサンデル6世

 専用図書室には複数の部屋があり、すでにほかの画家が弟子たちとともに内部装飾を手がけている部屋もあった。これらの部屋には、枢機卿時代のユリウス2世と激しく対立していた先々代のローマ教皇アレクサンデル6世の出資による壁画や紋章などがすでに描かれていた。ユリウス2世による図書室の装飾は、これらアレクサンデル6世の痕跡をヴァチカン宮殿からすべて消し去ることを目的としていた。

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「アテナイの学堂」

 ラファエロは26歳で「署名の間」に『アテナイの学堂』を完成させた。『アテナイの学堂』は盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化した作品であり、そこにラファエロは多くのギリシアの学者を描き込んだ。中心の二人はプラトンとアリストテレスで、左のプラトンは右手で天上を指し「イデア論」を主張していることを示しており、アリストテレスはそれに対して右手で地を指し示し「形相」を説いたことを示している。またラファエロはこれらの歴史上の人物を描くのに、同時代の芸術家をモデルにしている。例えば、プラトンはレオナルド=ダ=ヴィンチ、哲学者ヘラクレイトスはミケランジェロ、数学者エイクレイデス(ユークリッド)はブラマンテをモデルにしたと言われている。

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 一般的に知られている人物に番号を付した。(  )内でラファエロがモデルにしたと思われる人物名を示した。ただし、この人物比定はラファエロ自身が言っているのではなく、あくまで推定である。さらに詳細に否定を行っている美術史家もいるが、ここではよく知られた人物に絞った。

①プラトン(レオナルド=ダ=ヴィンチ)  ③ソクラテス  ④エピクロス  ⑤ピタゴラス  ⑥ヒュパティア:4世紀、アレクサンドリアの女性数学者、415年、キリスト教徒に虐殺された。(一説にこのモデルはラファエロの愛人マルガリータだという)  ⑦パルメニデス  ⑧ヘラクレイトス(ミケランジェロ) 

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 ②アリストテレス  ⑨ディオゲネス  ⑩エウクレイデス(ブラマンテ)  ⑪ゾロアスター:天球儀を持って、プトレマイオスと対話している。⑫プトレマイオス:地球儀を持っている。  ⑬プロティノス  ⑭ラファエロ本人が顔を出している

 
 依頼主であるユリウス2世は1513年に死去したが、ラファエロはメディチ家出身の次代ローマ教皇レオ10世ともさらに良好な関係を築き上げ、壁画制作も引き続きレオ10世のもとで続けられた。

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サン=ピエトロ大聖堂

 1514年のブラマンテ死後はサン=ピエトロ大聖堂の建設の指揮を執り、建築家としても才能を発揮した。  1515年にはレオ10世から「古代遺物監督官」に任命され、古代ローマの建築物の発掘と調査、現物の保存と図面の記録など、現在でいえば文化財保護の仕事もしている。

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「キリストの変容」

 ラファエロは1520年4月6日に37歳で早世した。ほぼ完成に近い状態にあった「キリストの変容」が遺作となった。その死んだ日が自身の誕生日であり、しかも聖金曜日であったことから彼の神格化が始まり、ラファエロの死の瞬間にヴァチカン宮殿の壁にひびが入ったといった伝説も生まれた。

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ラファエロとメディチ=ビッビエーナの墓

 その墓はローマのヴァチカン宮殿の中のパンテオンに作られており、1833年9月に行われた調査ではラファエロの身長は166センチだった。

  ラファエロは生涯結婚していないが、1514年に枢機卿メディチ=ビッビエーナの姪にあたるマリア=ビッビエーナと婚約はしている。この婚約は個人的にも友人だったメディチ=ビッビエーナに押し切られた結果と考えられており、ラファエロ自身はあまり気乗りがしないものだった。その後マリア=ビッビエーナは1520年に死去し、婚礼は行われないままとなったが、ラファエロの隣に葬られた。

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「ラ=フォルナリーナ」

 一方でラファエロは多くの女性と関係を持っていたといわれており、中でもローマ時代のラファエロにつねに寄り添っていたのが、シエーナ出身のパン職人フランチェスコ=ルティの娘マルガリータ=ルティで、「ラ=フォルナリーナ」のモデルは彼女だと考えられている。

 マルガリータ=ルティとの過度な情事が原因で熱病に罹患したが、体調を崩した理由を主治医に説明しなかったために誤った治療を受けたことが死因だとしているが、異論も多い。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2019/12/29 05:25 】

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