なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ガリレイは1564年にトスカーナ大公国領ピサで生まれた。ガリレイ家はフィレンツェに古くから伝わる名家ではあったが、ガリレオが生まれたころは裕福とはいえなかった。 有名な音楽家であった父の医学を学ぶようという希望から17歳でピサ大学に入学したが、のち数学・物理学に転向した。
1583年、大学在学中のガリレイはピサ大聖堂内部のランプが揺れるのを見て、振り子の長さが同じ場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じだ、と気づいた。「振り子の等時性」の発見である。しかし、これは後世に伝わる逸話で、どのような状況で発見したかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。
1589年、25歳でピサ大学教授となったガリレイは、当時物理学の分野で最高権威とされたアリストテレスの著作を批判する見解を発表したが認められず、1592年にヴェネツィア共和国内のパドヴァ大学教授に転じた。
ピサ大聖堂と斜塔
1605年、「落体運動の法則」を発見する。 落体の運動は、アリストテレスによって「落ちる物体の速度は、その物体の重さに比例する」とされており、いかなる学者もこれを否定することがなかった。 なぜなら鳥の羽がゆっくり落ちることは視覚的に確認でき、これが大きな説得力になっていたためである。 ガリレイは空気の抵抗に着目し、表面積が大きく軽い物体は空気抵抗によりゆっくり落ちるのだろうと仮定した。
ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せ、これを証明した。アリストテレスの間違いがこれほどはっきり照明されたことは、かつて一度もなかった。しかし、この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ=ヴィヴィアーニの創作で、実際には行われていないとする研究者も多い。
1609年の夏、45歳のガリレイは、オランダで発明された望遠鏡に2つの凸レンズを組み合わせて天体観測に使えるように改良した。ガリレイがその望遠鏡を天空に向けたとき、宇宙に関する古い観念を捨て去り、コペルニクスの理論を一層有利にする事実が明らかになった。例えば、完全な球体と考えられていた月の表面はでこぼこした不規則な形をしていた。金星を観測すると、月と同じように満ち欠けが見られ、自分で光っているのではなく太陽の光が反射していることが判った。そして、それは地球ではなく太陽の周りを回っていることの証であった。
木星の衛星
望遠鏡による最も大きな発見は、木星の4つの衛星の発見であった。それは、全ての天体が地球の周りを回っているとした天動説が誤っていることを指摘し、 星々が動いているのではなく地球が動いているのだとしてコペルニクスの地動説を支持するものであった。彼は様々な発見を含む観測結果をまとめて『星界の報告』を発表した。
さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった。ちなみに、ガリレイは晩年に失明しているが、望遠鏡で太陽を観察したのが原因であったと考えられている。
さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった。ちなみに、ガリレイは晩年に失明しているが、望遠鏡で太陽を観察したのが原因であったと考えられている。
ジョルダーノ=ブルーノの火刑
ガリレイは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。しかし、木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレイは、この後、地動説に言及することが多くなった。しかし、それはガリレイに危険が迫ることでもあった。
1600年には地動説を主張したために、ドミニコ派の修道士ジョルダーノ=ブルーノが宗教裁判にかけられ、異端として火刑に処せられている。
1600年には地動説を主張したために、ドミニコ派の修道士ジョルダーノ=ブルーノが宗教裁判にかけられ、異端として火刑に処せられている。
ガリレオ裁判
1616年、ガリレイはローマの異端審問所に召還されて第1次宗教裁判にかけられ、ガリレイは自説の発表と教授を禁止され、あわせてコペルニクスの地動説もローマ教皇の禁書目録に加えられることになった。しかし、ガリレイは、聖書に書いてあることは古代のヘブライ人の見解にすぎず、キリスト教の教えそのものではないと割り切り、自己の研究を続け、1632年には『天文対話』を発表した。その書は天動説と地動説に立つ二人の学者の対話を通じて、天動説を批判し、地動説の正しさをわかりやすく論証したものであった。彼はこの書を、学者だけでなくあらゆる人たちが読めるようにイタリア語で出版した。
それに対してイエズス会の宣教師たちはガリレイが1616年の裁判の決定を守っていないとして、強硬に非難した。そのため翌年、ローマで第2次宗教裁判にかけられることとなり、すでに70歳になっていたガリレイはローマに連れて行かれ、監禁状態で裁判が進められた。本人欠席のまま審理が進められ、ほとんど弁解の機会は与えられず、1632年6月22日の判決はガリレイの説を異端説であると断定し、『天文対話』も禁書目録に入れられ出版が禁止された。ガリレイは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた後、「それでも地球は動く」と呟いたと伝えられるが、これは伝説である。
ガリレイは1642年に77歳で息を引き取ったガが、家族の墓地に葬ることも、弔辞を読むことも、碑を建てることも禁止された。
ヨハネ=パウロ2世
1979年11月10日、ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世は、アインシュタイン生誕100年の祝典のなかで、「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」と題する講演を行い、ようやくガリレオ裁判の見直しに着手した。そして、1983年に裁判が誤りであったことを表明、翌年調査委員会も同様の結論に達し、ガリレイは約350年ぶりに無罪が確定した。
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