なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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セルバンテスはイダルゴ(下級貴族)の家の次男として、1547年9月29日にマドリード近郊のアルカラ=デ=エナーレスで生まれた。父は外科医であり、祖先を1492年以前にさかのぼるとユダヤ人だったとして、セルバンテスはコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)もしくは新キリスト教徒ではないかという研究者もいる。
少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれていれば手にとって読むほどの読書好きであったが、父の仕事がうまくいかず、バリャドリード、コルドバ、セビーリャと各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかった。だが1564年ごろ、マドリードに転居したセルバンテスはルネサンスの人文学者ロペス=デ=オヨスに師事する。オヨスは1568年に出版された詩文集にてセルバンテスを「わが秘蔵の弟子」と呼び、高く評価した。
1569年に教皇庁の特使であったアックアヴィーヴァ枢機卿の従者としてローマに渡り、ナポリでスペイン海軍に入隊するまでの生い立ちについては、あまり解明されていない。
少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれていれば手にとって読むほどの読書好きであったが、父の仕事がうまくいかず、バリャドリード、コルドバ、セビーリャと各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかった。だが1564年ごろ、マドリードに転居したセルバンテスはルネサンスの人文学者ロペス=デ=オヨスに師事する。オヨスは1568年に出版された詩文集にてセルバンテスを「わが秘蔵の弟子」と呼び、高く評価した。
1569年に教皇庁の特使であったアックアヴィーヴァ枢機卿の従者としてローマに渡り、ナポリでスペイン海軍に入隊するまでの生い立ちについては、あまり解明されていない。
1571年、24歳の時にスペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦に参加したが、被弾して左腕の自由を失った。しかし、その後も4年間従軍を続け、チュニスへの侵攻にも参加している。
ところが、本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となってしまう。このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送った。この間、捕虜を扇動して4回も脱出を企てるがことごとく失敗。このとき処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われるが、定かではない。
三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、1585年に最初の作品牧人小説『ラ=ガラテーア』を出版するが、あまり評価されなかった。
三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、1585年に最初の作品牧人小説『ラ=ガラテーア』を出版するが、あまり評価されなかった。
アルマダ海戦
1585年に父親ロドリーゴが亡くなると、セルバンテスの家庭は本人・姉・妹・姪・妻・娘(私生児)の6人家族となり、稼ぎ手の少ない家計は逼迫した。18歳年下の富農の娘と結婚したが、妻に嘲られて文筆生活を中断し、生計のために無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発するが、教会から強引に徴発したかどで投獄され、さらに翌年アルマダの海戦で無敵艦隊が撃破されたため職を失ってしまった。
その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、併せて負債として30倍の追徴金を背負わされ、未納金につき1597年に投獄される。
その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、併せて負債として30倍の追徴金を背負わされ、未納金につき1597年に投獄される。
1605年、獄中で執筆したと思われる『才気あふれる郷士ドン=キホーテ=デ=ラ=マンチャ』をマドリードで刊行して一躍有名となった。『ドン・キホーテ』は出版されるやいなやたちまち大評判となり、同年中に6版が重ねられた。『ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、版権を安く売り渡していたため、生活面での向上は得られなかったが、その後も創作活動は続けられた。
この不朽の名作『ドン=キホーテ』は、政治・道徳の退廃した時代にあっては、崇高な理想も現実と衝突して無惨に敗北することを風刺したもので、騎士ドン=キホーテと従者サンチョ=パンサの2人を巧妙に描き分けた。笑いとペーソスに満ち、豊かな筋・場面の急速な転換・669人という多数の登場人物の描き分け・各地の地理や風俗描写など、スペインのルネサンス文芸を代表するとともに、近代小説の祖となった。ただ、セルバンテス自身は詩人を志したといわれ、これがいわば手すさびの作品であったことは皮肉である。
シェークスピア
セルバンテスは1616年4月23日に亡くなったが、イギリスのシェークスピアと死亡した日が同じであるとされることが多い。しかし、当時はヨーロッパ大陸とブリテン島とで異なる暦を使用しており、実際には同じ日ではない。これは、1582年にローマ教皇がユリウス暦からグレゴリウス暦へ暦の変更を決定し、大陸のカトリックやプロテスタントの国々が順次変えていったのに対し、当時のイギリスは、カトリック教会の権威が及ばないイギリス国教会が優勢だったために新しいグレゴリウス暦を受け入れることが遅れたからである。
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