なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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8月20日(火)
ブッダが予言したと言われる場所が、標高 236 メートルのマンダレーヒルのふもとである。ミンドン王は、その予言を実現させることを決意し、アマラプラの王国を統治していた1857年1月13日に、新たな王国を創設する勅令を発した。登位記念式典は1858年1月に挙行され、それまでの王都アマラプラは解体されて、象によりマンダレーヒルのふもとの新立地に運ばれた。
マンダレーの町は1859年5月23日に完成し、翌1860年にアマラプラからの遷都が行われた。しかし、1885年の第3回ビルマ戦争に敗れたミャンマーはインド帝国に併合され、この町はわずか26年で王都としての歴史を閉じた。
入り口の石柱には「Golden Palace Monastery(黄金の宮殿の僧院)」の文字が。シュエナンドーとは「黄金の宮殿」という意味があり、その名の通り当時は建物に金箔やガラスのモザイク装飾が施され黄金に輝いていたそうだ。
ミンドン王を継いだティーボー王は建物を王宮の城壁外である現在の場所へと移し、個人的な瞑想の場所として使った。マンダレーの王宮は1945年にイギリスの空爆で焼失してしまうが、シュエナンドー僧院は移築したおかげで戦災を逃れる事が出来た。現在残るミャンマーの伝統的な様式の建築物の中でも歴史的価値の高い貴重な建物と言える。
ティーボー王の隣に座っているのが王妃のスパラヤットだが、異母妹だと聞いて、開いた口が塞がらなかった。いくら母親が違うと言っても、妹と結婚する奴がいるか?おとうさんよりももっと不道徳ではないか。
これは明らかなる政略結婚で、力が弱く瞑想に耽ってばかりいる若いティーボーを国王にしておいて、スパラヤットを含む保守派が巻き返しを図るためであったようだ。これにより、王位継承資格者約80人が捕えられて処刑され、王国の近代化は挫折した。
おやっ、日本のお寺で言えば内陣にあたる所に「女人禁制」の札が。
そんなわけで、仏像に近づけたのは、男だけ。ミャンマーの女性達は素直に従っているのだろうが、今時ね~。上座部仏教の教団は女性差別ではないと言っているようだが、明らかに女性差別ですよ。もし、禁制を犯して女性が内陣部分に足を踏み入れたら、どうなるんかね。不謹慎だけど、抗議の意味を込めて一度やってみても、いいんじゃない。
1885年、コンバウン朝は滅亡し、ティーボー王と王妃はインドに追放された。インドのラトナギリには現在でもティーボー王の子孫が暮らしているそうだ。
この仏像はコンバウン朝の最後を見ていたのだろうか?悲しみに沈んだお顔のようにも見えるが、気のせいだろうか。(つづく)
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ミャンマーでヤンゴンに次ぐ第2の都市であるマンダレーは、仏教の2400周年の祝祭の機にまさにこの場所に偉大な都市(仏教の都)が現れるであろうというブッダの予言に従って、コンバウン朝第6代ミンドン王により建設された。
マンダレーヒル
ブッダが予言したと言われる場所が、標高 236 メートルのマンダレーヒルのふもとである。ミンドン王は、その予言を実現させることを決意し、アマラプラの王国を統治していた1857年1月13日に、新たな王国を創設する勅令を発した。登位記念式典は1858年1月に挙行され、それまでの王都アマラプラは解体されて、象によりマンダレーヒルのふもとの新立地に運ばれた。
マンダレーの町は1859年5月23日に完成し、翌1860年にアマラプラからの遷都が行われた。しかし、1885年の第3回ビルマ戦争に敗れたミャンマーはインド帝国に併合され、この町はわずか26年で王都としての歴史を閉じた。
「A Little Bit of Mandalay」での昼食を終え、午後2時10分一旦ホテルに入り休憩。午後4時40分、マンダレーで最初に訪ねたのがシュエナンドー僧院である。この僧院は、元々アマラプラにあった王宮内の建物の一部だったが、マンダレーに遷都した後はミンドン王の住居として使用され、ミンドン王はその第一夫人としばしばここで過ごしたという。
入り口の石柱には「Golden Palace Monastery(黄金の宮殿の僧院)」の文字が。シュエナンドーとは「黄金の宮殿」という意味があり、その名の通り当時は建物に金箔やガラスのモザイク装飾が施され黄金に輝いていたそうだ。
釣鐘を支える柱には龍の装飾が。
シュエナンドー僧院はミャンマーには珍しい木造建築で、見所は何と言っても屋根や壁面、柱などに施された秀逸な彫刻装飾の数々だ。チーク材をふんだんに使用した建造物には、見事な彫刻がびっしりと施されており、建物自体が一つの芸術作品となってる。
建物を前にまず目を奪われるのが、屋根の縁を覆う燭台のように尖った繊細な装飾。写真では分かりにくいと思うけど、尖った部分をよく見てみると手を合わせて合掌する仏像が無数に彫り込まれてる。壁や扉にも植物や神々をモチーフにした彫刻が隙間なく施されており、さらに床下の柱にも龍の彫刻が施されるなど、細部まで手の込んだ造りは見逃せない。
中に入ると、高床式で床が高くなっているので、外よりは幾分涼しい。天井は見事な格天井で、金箔が施されている。
柱にも金箔が施されており、当時は黄金に輝く、まさに「黄金の宮殿」だったのだろう。ミンドン王は1878年にこの建物の中で息を引き取った。国家の近代化に力を注いだ国王であったが、45人の妃に70人の子供を産ませた「不道徳な王」というのがミャンマー人の評価だそうだ。
ティーボー王と王妃
ミンドン王を継いだティーボー王は建物を王宮の城壁外である現在の場所へと移し、個人的な瞑想の場所として使った。マンダレーの王宮は1945年にイギリスの空爆で焼失してしまうが、シュエナンドー僧院は移築したおかげで戦災を逃れる事が出来た。現在残るミャンマーの伝統的な様式の建築物の中でも歴史的価値の高い貴重な建物と言える。
ティーボー王の隣に座っているのが王妃のスパラヤットだが、異母妹だと聞いて、開いた口が塞がらなかった。いくら母親が違うと言っても、妹と結婚する奴がいるか?おとうさんよりももっと不道徳ではないか。
これは明らかなる政略結婚で、力が弱く瞑想に耽ってばかりいる若いティーボーを国王にしておいて、スパラヤットを含む保守派が巻き返しを図るためであったようだ。これにより、王位継承資格者約80人が捕えられて処刑され、王国の近代化は挫折した。
おやっ、日本のお寺で言えば内陣にあたる所に「女人禁制」の札が。
そんなわけで、仏像に近づけたのは、男だけ。ミャンマーの女性達は素直に従っているのだろうが、今時ね~。上座部仏教の教団は女性差別ではないと言っているようだが、明らかに女性差別ですよ。もし、禁制を犯して女性が内陣部分に足を踏み入れたら、どうなるんかね。不謹慎だけど、抗議の意味を込めて一度やってみても、いいんじゃない。
1885年、コンバウン朝は滅亡し、ティーボー王と王妃はインドに追放された。インドのラトナギリには現在でもティーボー王の子孫が暮らしているそうだ。
この仏像はコンバウン朝の最後を見ていたのだろうか?悲しみに沈んだお顔のようにも見えるが、気のせいだろうか。(つづく)
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