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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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サガイン②ーサガインヒルの「日本パゴダ」②

8月21日(水)

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 サガインヒルの頂上に立つ「日本パゴダ」。高さ20mはあるだろうか。

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 「日本パゴダ」建立の由来が書かれた碑文。少し長いが、読み辛いと思うので全文をあげておく。

「第二次世界大戦に於いて祖国日本の護りとして派遣された若き戦士たちが愛国の至誠に燃えてこの地ビルマに斗いましたが戦時に利あらず国と家郷の弥栄を願いながらこの山河の中に屍を横たえてゆきました。戦後30年を経てこの地を訪れた生還者たちが野をこえ山をこえて喚び交わす亡き戦友たちの望郷と愛国の願いの声を耳底にはっきりと聞きました。その純粋な願いを更に耳を澄まして聞き其の徳を讃えるために塔の建立を決意し3年の工期を経て昭和51年1月一応の落成を見ました。是の工事を担当したのは烈第138連隊の生存者たちでありました。然し英霊は一つであり138連隊の者は全英霊に捧げる塔と考えています。塔はもとより仏舎利を安置するものであります。戦友たちの心の仏陀にまで昇華されんことを願いつつこの章碑を建てます。1976年春 烈第138連隊 戦友遺族一同」

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 烈138連隊こそサガインヒルに立てこもっていた部隊で、昭和20年3月10日、最後にエーヤワディ川南岸に撤退した。お蔭で仏都サガインは戦火に見舞われずにすんだらしい。138連隊は奈良の連隊だ。
日本の古都奈良と仏都サガインの交流、「日本パゴダ」はこの地にふさわしい姿で立っている。 

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 基壇の白塗りの壁に戦没者と寄進者の氏名がずらっと並んで刻まれていた。

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 「日本パゴダ」の左に立つ礼拝堂。

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 「礼拝堂建立の記」によれば、パゴダ建立の後に礼拝堂がないことを惜しむ声があり、昭和56(1981)年に電信第19連隊戦友会が浄罪を募り建立したと書かれている。

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 卒塔婆が供えられているが、最近誰かがお参りした気配がなく、花も供えられていない。しまった、さっきの慰霊碑に全部お供えしちゃった。もう花の売り子の姿も見えないし。誤りながら手を合わした。

 実はこの礼拝堂にペットボトルなどのゴミが散乱していた。10年ほど前までは日本から慰霊団がやって来たそうだが、遺族の高齢化により最近はめっきり減ってしまったそうだ。悲しいことだ。僕を含めて、日本人のほとんどがこの地に慰霊の塔があることすら知らない。決して戦争を風化させてはいけないと思う。それを子供たちに伝えて行くのが教師の努めだと思うのだが。
 
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 礼拝堂の上部の壁には「塔を建てる心」の碑が。
 
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 礼拝堂の左手にはミャンマーの人々に対するお詫びの碑も立っていた。

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 このパゴダからエーヤワディ川が見える。左手のほうに先ほど通った鉄橋が見えるから、この方角の先にインパールがある。

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 太平洋戦争は泥沼に陥った日中戦争を終わらせる目的で始まったのだが、イギリスの最前線基地であるインドのインパールを包囲することで、援蒋ルートを断とうとしたのがインパール作戦であった。援蒋ルートとは連合軍による蒋介石の重慶政府に対する補給ルートのことである。

 しかしビルマからインパールへ侵攻するには、チンドウィン川という巨大な河川やアラカン山脈といった標高3000メートルを超える規模の山脈を越える必要があった。そうした中で前線部隊へ弾薬や食料などの物資を補給することは不可能な状況であることはどの将校にも一目瞭然であった。

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牟田口廉也中将

 ほとんどの将校が反対する中、1944年3月、インパール作戦は牟田口廉也【むたぐちれんや】中将により強硬に進められた。最前線への補給路は険しい山道のため、車両は通行できず、徒歩による行軍しかない。そこで、牟田口中将は現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を考案した。

 結果、チンドウイン川では牛の半分以上が溺死し、残りの牛も山越えはかなわず、物資毎、消失してしまいました。また3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの物資が散逸した。このため糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を大きく消耗する結果を招いた。


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 この作戦にかり出されたのが第15軍の3師団で、さっきの慰霊碑にあった第15師団(祭)・第31師団(烈)・第33師団(弓)であった。この無謀な作戦は悲惨な失敗に終わり、日本軍参加将兵約8万6千人のうち戦死者3万2千人余り、戦病者は4万人以上を出して終結したが、戦病死した将兵の大半が餓死であったとされる。

 退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様から「白骨街道」と呼ばれた。

 終戦から70年以上たった今なお4万5000柱が未帰還のまま。長らく外国人の立ち入りが規制されていた現地では、今でも旧日本兵の遺留品が数多く残され、日本に帰れない遺骨が眠ってるそうだ。牟田口中将の責任が重大であるのは勿論だが、そうした人物を生み出してしまった日本の組織の在り方にこそ問題があるように思える。

 異国の地に果てた多くの将兵に深く哀悼の誠を捧げる。合掌。(つづく)

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【 2020/03/17 05:20 】

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