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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー信によりてのみ義とされる・マルティン=ルター①

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マルティン=ルター

 ルターは1483年、ザクセンのアイスレーベンの鉱山労働者ハンスの子として生まれた。洗礼を受けた日がトゥールのマルティヌスの祝日であったことにちなんで、マルティンと名づけられた。もともと農夫から身を起こした父は、上昇志向が強く、子供たちにもさらに上を目指すよう常に要求していた。

 父の願いに沿う形で、ルターは勉学に取り組み、エルフルト大学で文学を学んだ後、同大学で法律の学位を取得した。これは青年ルターの将来が世俗的意味で約束されたことを意味し、父親ハンスは、以後マルティンを「お前」(du)ではなく「あなた」(Ihr)と呼ぶことにすると言ったほど喜んだ。

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 1505年、帰省中の実家から大学に戻る途中、ルターはエルフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で激しい雷雨に遭った。一緒にいた友人は落雷により絶命し、落雷の恐怖に死すら予感したルターは、「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから!」と叫んだという。この事件をルターは自身の罪に対する神の怒りとして受け止め、親の猛烈な反対を押し切ってエルフルトのアウグスティヌス会修道院に入って修道僧になってしまう。

 修道士ルターが自らに課し、その答えを求めて悩み苦しんだ根本的な問いは、いかにすれば自身の魂の救いが得られるかであった。彼は宗教上の勤めを忠実に実践し、祈り、断食を行い、深い瞑想にもふける。しかし、どれほど努力しても魂の奥底に欲望がうごめき、悪徳が芽生えるのを感じて絶望する。

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アウグスティヌス

 この間ルターにたえず影響を与えていたのは、救いにおいて神の恩恵を重視する教父、聖アウグスティヌスであった。彼はまた、神の善き行いにより救いを得させようと促すが、誰を救うかは神が自由に決めることとする、ドイツのガブリエル=ビールの神学にも感化された。そしてついに聖書の中のパウロの言葉「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」にヒントを得て、「信仰のみ」の思想に到達した。これが「塔での回心」と言われるルターの回心の経験であった。

 神は人間の敬虔な「行い」、または善き「行い」とは無関係に恩恵を与える。人間はアダムが犯した原罪のゆえに徹底的に堕落した存在であり、そのいかなる努力も空しい。十字架にかけられたイエス=キリストの憐れみを信じることによってのみ、人間は神の前で正しいとされる。このようにルターは、キリストの憐れみに対する信仰のない「行い」の無意味さを認識した。ここから当然、免債による罪の赦免に対する、彼の激しい批判が出てくる。

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レオ10世の贖宥状

 1515年、ローマ教皇レオ10世は、サン=ピエトロ大聖堂建設の資金を得るため贖宥状の販売を始めた。贖宥状がドイツで大々的に販売されたのには裏話がある。

 当時マグデブルク大司教であったホーエンツォレルン家のアルブレヒトは弱冠23歳にしてマインツ大司教も兼任することになった。本来、大司教位は30歳以上でないと認められないし、大司教位の兼任は禁止されている。それがまかり通ったのは、アルブレヒトがブランデンブルク選帝侯の実弟だったからだ。つまり、ホーエンツォレルン家の金と政治力の結果であった。

 驚いたことに、これを教皇レオ10世が許可した。もちろん金と引き替えであった。金貨にして約1万4000枚。神聖ローマ帝国の歳入に匹敵する額だった。アルブレヒトにそんな資産があるはずもない。そこで、お決まりの借金をすることにした。当然、アウクスブルクの大富豪フッガー家からである。

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贖宥状販売団 

 こうしてマインツ大司教となったアルブレヒトは借金返済のため教皇レオ10世から独占販売権を認めてもらい、フッガー家とタッグを組んで贖宥状の販売に乗り出した。実際に贖宥状をドイツ各地に売り歩くのはドミニコ修道会の役目である。これにフッガー家の帳簿係が同行し、売上の記録をつける。売上の一部は、手数料としてドミニコ修道会の利益になる。残りはアルブレヒトの収入となる。

 この収入のうち、半分はアルブレヒトの取り分となり、もう半分はマインツ大司教の贖宥状販売を許可した教皇の取り分となる。ただし、アルブレヒトの取り分は、大司教叙任時の上納金のための借金の返済のため、そのままフッガー家へ渡る。教皇レオ10世はサン=ピエトロ大聖堂の建築資金をフッガー家から借りていたので、教皇の取り分も結局フッガー家へ渡る。これらの金の流れは帳簿上で行われるのであって、実際に金で一杯になった代金箱はフッガー家の者が持っていくのである。

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テッツェル

  ドイツにおける贖宥状販売の中心人物であったドミニコ修道会のテッツェルは、次のよなう宣伝口上を唱えたと言われる。

 「 聖母マリアを犯して身篭らせたとしても、贖宥状を買えば許される」「
自分の代わりに聖ペテロが贖宥状を売りに来たとしても、自分の方がより多くの許しを与えることができる」「おまえの母親は今、煉獄で何千年にも渡って焼かれている。贖宥状を買うやいなや、おまえの母親は天国に入る」

 そして、最後に「グルデン金貨が「チリン」と鳴れば、たちまち「スポン」と天国へ」と付け加えた。

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ヴィッテンベルク教会

 1512年からヴィッテンベルク大学神学教授を勤めていたルターは、贖宥状を買ったというヴィッテンベルクの庶民からテッツェルの様子を聞き、素朴な疑問をもった。贖宥状のことは聖書に書いていない。それによって人は本当に救われるのだろうか…。悩んだすえルターは贖宥状販売が誤っているという結論に達し、テッツェルがヴィッテンベルクに近づいた1516年7月、ルターは贖宥状の有効性に疑問を呈する説教を始めた。しかしこれが大きな問題となったのは翌1517年秋のことである。 

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 1517年10月31日、ルターは「九十五カ条の論題」をヴィッテンベルク城に附属する教会の門扉に貼り出した。この文書はラテン語で書かれており、学者にしか読めないものだった。つまり、ルターには社会に向かって大々的に贖宥状を批判しようという意図はなかった。ルターは当時の学者の週間に従い、「罪」と「罰」の関係、贖宥の教理についてドミニコ修道会との学術討論を呼びかけたのであり、この文書は討論会の開催案内に過ぎないものだった。


 ルターは当初は贖宥状の発行を批判したのであって、ローマ教皇や教会の存在、制度、その権威そのものを否定したのではなかった。しかし、論争が激化する過程で、ルターは自分の意図に反して教会批判そのものに向かわざるを得なくなるのである。(つづく)
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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/04/24 05:28 】

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