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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー大変な別れ話・イギリス国教会①

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ヘンリ7世

  1485年、ヘンリ7世はバラ戦争を終結させ、テューダー朝を開いた。ヘンリ7世は、内戦のためにヨーロッパで地位を築けていなかった小国イギリスの国際的地位を築くことに腐心し、婚姻外交で成果を収めた。まず娘マーガレットをスコットランド国王ジェームズ4世の妻として送り、和平を実現した。

 ジェームズ4世とマーガレットの孫娘にあたるのがメアリ=ステュアートであり、その子ジェームス6世がイングランドのテューダー朝に替わるステュアート朝を開くジェームズ1世となる。

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皇太子アーサー

 1501年の秋、イギリス南部の港プリマスに、スペインから特別仕立ての豪華船団が入港した。スペイン王室の姫君が、イギリス王室へご降嫁になるべく、海路の旅の目的地に、いよいよ降り立たれることになった。

 花嫁一行はロンドンに入り、1カ月後、ご婚儀がセントポール大聖堂でにぎにぎしく執り行われた。花婿はテューダー家の皇太子アーサー殿下。御年15歳。ヘンリ7世にとっては期待の跡取り息子である。

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 キャサリン=オブ=アラゴン

 花嫁は、スペインの「カトリック両王」フェルナンドとイサベルの末娘カタリーナ(イギリスではキャサリン=オブ=アラゴンと呼ばれた)。御年16歳であった。二人は1489年婚約していたが、12年後にようやくこの日を迎えたのである。ところが、悲しいことに、アーサー殿下はこの結婚式の翌年の春、突然に亡くなってしまわれた。新婚の若妻は、5カ月足らずでやもめの悲劇。しかし、スペイン王室からいただいた大事な姫君、おめおめとお返しするわけにもいかない。

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ヘンリ8世

 ヘンリ7世は、次の跡取り息子ヘンリを説得して、姫との婚約を承知させた。11歳と腕白盛りのヘンリは、あまり乗り気ではない様子。おまけに兄嫁と結婚することはカトリックでは許されないことであった。だが周到な父王は、近親結婚の咎めを受けることのないよう、教皇ユリウス2世に特別許可をもらい、話しは決まった。

 1509年に18歳で国王になったヘンリ8世は、わがまま放題の、典型的な2代目のおぼっちゃま。長身のスポーツマンで、朗々たる美声で唄う。よく言えば天衣無縫、豪放磊落だが、短気、強情、責任感より見えが先に立ち、金銭感覚ゼロとなれば、尻ぬぐいの役は必ず誰かに回ってくる。ヘンリ8世の無謀な「国王道」の尻ぬぐいの役は、みな断頭台でその役を務めさせられた。生涯で6回結婚し、女癖の悪さではイギリス王室史上でも類を見ない。イングランド史上、これほど恐いもの知らずの国王はいない。

アン=ブーリン 
アン=ブーリン

 ルターの宗教改革が始まった時、ヘンリ8世はこれを激しく批判したことから、1521年に教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を授かった。それほど熱心なカトリック信者であったヘンリ8世が教皇と決別することになったのは国王のこらえ性のない女性問題がきっかけであった。問題の女性は、王妃キャサリンの侍女であったアン=ブーリンである。アンは駐仏大使となった父に従ってフランスへ行き、一時宮廷に仕えている。

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国王との出会い

 1526年頃に帰国し、王妃キャサリンの侍女となったが、この時アンは25歳、ヘンリ8世は35歳であった。アンのぴちぴちした若さとフランス仕込みのコケットリーに魅了されたヘンリ8世は、アンに愛人になるよう求めた。しかし、アンは強硬に王妃の座を要求し、さもなければ肉体関係を拒否すると言い出した。

 一方、ヘンリ8世の6歳年上の王妃キャサリンは、スペイン王室から嫁いで十数年。7人の子供を産んだが女子のメアリ(後のメアリ1世)を除いていずれも早世し、年齢もすでに40の坂を下り始めており、もう子供は望めない。

 男の子の後継ぎが欲しかった国王は、1527年に王妃と離婚すると言い出した。厳密には離婚ではなく、兄嫁だったキャサリンとの結婚は無効だったという申し出をしたのだが、かつて父ヘンリ7世が特別赦免で認めてもらった結婚を、今度は息子が同じ理由で赦免の取消を要請したわけであるから、ずいぶん勝手な言い分であった。

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教皇クレメンス7世

 慌てたのは、申し出を受けた教皇クレメンス7世である。幸か不幸か、キャサリンは今をときめくヨーロッパの帝王カール5世の叔母である。血族による連帯を重視するカール5世が、身内に対するこのような恥辱を許すはずがない。

 イタリア戦争ですっかりカール5世にしてやられた教皇クレメンス7世は、やすやすと皇帝側についた。かくしてヘンリ8世の離婚のごたごたは、ローマ教皇とカール5世を真っ向から敵に回すことになってしまった。

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王妃の座を追われるキャサリン

 ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を合法化するため、1529年11月に議会を招集した。その後断続的に36年まで続いた議会を「宗教改革議会」という。1530年代にヘンリ8世は次々とローマ教会からの独立をはかる施策を議会で承認される中、32年暮れにアン=ブーリンの懐妊が判明した。

 このままだとアンの子は私生児となってしまうので、まず翌33年1月に秘密結婚し、4月にカンタベリー大司教トマス=クランマーによりヘンリ8世とキャサリンの結婚は無効とされ、6月にアン=ブーリンが王妃として戴冠、キャサリンは王妃の座を追われた。その後、キャサリンは囚人扱いを受けても離婚を認めず、あくまで王妃としての毅然たる態度でイギリスにとどまり、信仰篤い生活に明け暮れ、1536年に48歳で亡くなった。

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トマス=モア
 
  ヘンリ8世は1534年11月には首長法(国王至上法)を制定、国王をイギリスの教会の唯一最高の首長とする国教会制度をつくり、ローマ教会と絶縁してイギリス宗教改革を断行した。

 このヘンリ8世の王妃離婚をカトリックの教義の立場と、法遵守の立場から批判し、あくまで抵抗したのが大法官トマス=モアであった。ヘンリ8世はトマス=モアを反逆罪にあたるとして、1535年処刑した。


 さて、アン=ブーリンは1533年9月にヘンリ8世待望の子供を産んだのだが、男であったか女であったかは、次回お話ししよう。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/05/01 05:26 】

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