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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー聖なる帝国の覇者・カルロス1世

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カルロス1世

 カルロス1世は1500年、ネーデルラントの領主フィリップ美公とカスティーリャ女王ファナとの間に生まれた。

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マクシミリアン1世

 父方の祖父母は神聖ローマ帝国の皇帝であるハプスブルク家のマクシミリアン1世と、かつてヴァロワ朝フランス王国とすら互角に渡り合った大国ブルゴーニュの女公マリー。

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イサベル1世

 さらに、母方の祖父母は結婚によって統一スペイン王国を誕生させ、のちにグラナダ王国を制圧しイベリア半島からイスラーム勢力を駆逐した「カトリック両王」ことアラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王フェルナンド5世)およびカスティーリャ女王イサベル1世という、当時のヨーロッパ王族のサラブレッドともいうべき血筋の生まれであった。

 カルロスはドイツ王・神聖ローマ帝国皇帝を出したハプスブルク家の出身であったが、ハプスブルク家の全ヨーロッパに張り巡らした婚姻政策が続いたため、純粋なドイツ人とは言えなくなってしまっおり、3代前にさかのぼればカールにはドイツ人の血は8分の1しか流れていない。

 おまけに、カルロスが生まれたのは父の領地ブルゴーニュ公国のガンで、育ったのもブルゴーニュ(つまりフランス語文化圏)、スペインに初めて行ったのはスペイン王となった16歳の時だった。スペイン王となってから熱心にスペイン語を覚えたので、フランス語とスペイン語は話せたが、ドイツ語はほとんど話せなかったという。

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フランソワ1世

 1516年、カルロスは外祖父フェルナンド5世の死を受けてカスティーリャ王に即位。それは同時にアラゴン、ナバーラ、グラナダ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、さらにスペイン領アメリカにいたる広大な領域の統治者となったことを意味していた。
 
 1519年、祖父マクシミリアン1世の死によりドイツ王となったカルロス1世は、神聖ローマ皇帝選挙に名乗りをあげた。これに対抗してフランス王フランソワ1世も名乗りを上げた。選帝侯を買収するためにカルロスは金貨2トンを、フランソワは金貨1.5トンを用いたと言われている。カルロスは選挙資金をドイツの鉱山・金融王フッガー家に頼んで調達し、選帝侯全員一致をの支持を取り付け選出され、皇帝カール5世となった。

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  ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執があったが、フランスはハプスブルク家に両側(ドイツ・スペイン)から挟まれる形になり、重大な脅威を受けることになったため、フランスは戦略上イタリアを確保することが必要になった。こうして始まったのが狭義のイタリア戦争(第3次イタリア戦争)であった。

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パヴィアの戦い

 1517年にルターの宗教改革が始まっており、ローマ教皇レオ10世はカール5世と同盟。カール5世の叔母キャサリンが嫁いでいたイングランド国王ヘンリ8世も味方につき、劣勢となったフランソワ1世は親征を決行したが、パヴィアの戦いで捕虜となったことで、戦争は終結を迎えた。

 この戦争の最中にカール5世のドイツ人傭兵がローマで狼藉を働いた。これが「ローマ劫掠」である。その結果、カール5世の軍勢を恐れた教皇クレメンス7世がヘンリ8世の結婚無効の申請を却下し、イングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。

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フランソワ1世とスレイマン1世

 ローマ皇帝として、カール5世は当時論議の的となっていたマルティン=ルターの扱いにも苦慮し、1521年ヴォルムス帝国議会に召喚し、帝国追放の処分をくだした。しかしスペインの統治・フランス王との抗争に忙殺される中でルター派は広がっていった。

 そうした中、フランソワ1世と同盟したオスマン帝国のスレイマン1世がドイツの背後をうかがったため、1526年にシュパイアー帝国議会を開催し、新教諸侯と妥協してルター派を承認した。

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第1次ウィーン包囲

 1929年、オスマン帝国軍の第1次ウィーン包囲をかろうじて撃退すると、第2回シュパイアー帝国議会で再びルター派を禁止したため、新教派はこれにプロテスト(抗議)し、やがて彼らはシュマルカルデン同盟に結集した。新教徒を「プロテスタント」と呼ぶのはこれに由来する。

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アウクスブルクの和議

 イタリア戦争は皇帝がやや有利のうちに講和したが、国内の宗教戦争では皇帝派の形勢は不利となり、1555年、アウクスブルクの和議が成立してルター派の信仰が認められた。これにより、カルロス1世は政治に対する意欲を失ってしまった。

 1556年、長年の痛風及び統治と戦争に疲れたカルロス1世は、帝位を弟のフェルディナント1世、スペイン王位を子のフェリペ2世に譲って退位し、スペインのユステ修道院に隠棲した。それから2年、修道院で失意の余生を送り、
1558年に58歳で亡くなった。


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/05/08 05:36 】

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