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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー太陽の沈まぬ帝国・フェリペ2世

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フェリペ2世

 フェリペは1527年にカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の長男として生まれ、1556年カルロス1世の引退によって28歳でスペイン国王となった。父カルロス1世は「遍歴の国王」といわれ、スペインに留まらず広大な神聖ローマ帝国領の各地を移動していたが、フェリペ2世はほとんどスペインから離れず、カステーリャ語しか話さなかった。

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エル・エスコリアル宮殿

 1561年に宮廷をマドリードに定め、63年から王宮・修道院・墓所を兼ねたエル・エスコリアルを建設した(84年に完成)。「この樹木のない山腹から、余は2インチの紙片で世界の半分を統治している」と自ら語ったように、彼はここで当時としては最大級に整備された行政機構の頂点に立ち、広大な領土から送られてくる書類の山に相対する毎日を送った(書類の数は月に1000通、「勤務時間」はしばしば14時間に達したという)。このようはフェリペ2世を人は「書類王」とも「慎重王」とも称したという。

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メアリ1世
 前代からの広義のイタリア戦争でのフランスとの対立が続いていた。即位直後の1557年、サン=カンタンでフランス軍を破り、輝かしい勝利をおさめた。フェリペ2世は皇太子時代の1554年にイギリスのメアリ1世と再婚(メアリは11歳年上)していたので、イギリスにも出兵を要請、しかしイギリス軍は敗れて、翌58年にはフランス内のイギリス領カレーを失った。メアリのカトリック復帰強行が国民の多数が反発、イギリスとの関係は再び悪化した。同年にメアリが亡くなると、フェリペ2世は次のエリザベス1世にも結婚を申し込んだが断られ、イギリスは国教会に復帰することになった。こうしてフランスとの戦争を継続することが困難となり、1559年のカトー=カンブレジ条約で講和し、長期にわたったイタリア戦争はようやく終結した。

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エリザベート

 1559年、カトー=カンブレジ条約によりフランス王アンリ2世の長女エリザベートと3度目の結婚をした。 その祝宴の一環で行われたモンゴムリ伯との馬上槍試合において、アンリ2世は偶発的に右目を貫かれ、その傷がもとで亡くなってしまった。長男のフランソワフ2世が即位したが、まだ15歳。母親のカトリーヌ=ド=メディシスが王権強化のため、ユグノー(フランスのカルヴァン派)に対する抑圧を緩和する政策を行うが、これが裏目に出てユグノー戦争という大変な事態を引き起こすことになる。

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サンバルテルミの虐殺

 フェリペ2世は、自らカトリック世界の最高の保護者たらんとして、領内のカトリック以外の宗派には厳しい弾圧を加えた。ユグノー戦争の最中の1572年にサンバルテルミの虐殺が起こって、パリだけで約3000人の新教徒が殺害され、さらに虐殺は全土に及んで数万人が死んだ。その知らせを聴いたフェリペ2世は、それまで笑ったことのない冷酷な男だったが、生まれて初めて笑ったと伝えられる。
 
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レパントの海戦

 16世紀の地中海世界は、1538年のオスマン帝国海軍がプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア連合海軍を破ってから、オスマン海軍の支配下にあった。それに対して、フェリペ2世は1571年、教皇ピウス5世の提案にもとづき、教皇領・ヴェネツィアと連合して大小300隻よりなる艦隊を派遣した。10月7日、これを迎え撃とうとする250隻よりなるオスマン帝国海軍とギリシアのレパント沖で激突。4時間にわたる激戦の結果ついにこれを破り、キリスト教世界の救世主との名声を得た。

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レガスピ

 同じ1571年の5月16日、レガスピが230人のスペイン兵と600人以上の傭兵を乗せた20隻の船団でフィリピンのマニラに入港し、6月には恒久的な入植地を建設、本格的なフィリピンの植民地化が開始された。フィリピンは1541年にルソン島・レイテ島等を発見したコンキスタドールのスペロペス=デ=ビリャロボスラが、皇太子であったフェリペを称えて命名したもので、アジアにおけるスペイン唯一の植民ととなった。

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イサベル

 15080年、フェリペ2世はポルトガル王家が断絶したことにつけ込み、母イサベルがポルトガル王家出身であったことから王位継承権を主張。1581年にはコルテス(身分制議会)で即位を認めさせ、ポルトガル王としてはフェリペ1世となった。このポルトガルを併合によって、イベリア半島を統一的に支配し、さらにアフリカ・インド・東南アジア・中国に点在する海外領土を獲得して、フェリペ2世のスペインはまさに「太陽の沈まぬ国」を実現したのである。

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オランダ独立戦争

  「異端者に君臨するぐらいなら命を100度失うほうがよい」と述べたフェリペ2世は、カトリックによる国家統合を最も重視した。プロテスタントだけでなくユダヤ教徒、モリスコ(キリスト教に改宗したイスラーム教徒)の動きは厳しく告発され、何度も火刑が行われた。

 フェリペ2世はカルヴァン派の新教徒ゴイセンの多かったネーデルラントに対してもカトリックを強要した。それに反発して1568年にはネーデルラント独立戦争が始まると、その独立運動を厳しく弾圧し、さらにネーデルラントを支援するイギリスを討とうとして無敵艦隊を派遣した。

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アルマダ海戦

 1588年7月、3万の兵士を乗せた130隻の大艦隊を派遣した。スペイン自身はこの大艦隊を「最も幸福なる艦隊」と名づけたが、スペイン語「Armada Invencible」の訳である「無敵艦隊(アルマダ)」の名が広く知られている。

 無敵艦隊が英仏海峡に姿を現すと、戦局の行方についてヨーロッパ中に噂がとび、フランス人は会うペイン軍上陸の可能性を賭率6対1とした。銀行家たちはイギリスに勝算なしと断定する。アルマダの接近を知ったイギリス中はパニックに陥った。「腹をすかせたワニが小魚をひと呑みにする」とは誰しもが考える予想である。だが、結果はドーヴァー沖の海戦でイギリス艦隊の巧妙な作戦行動と正確な射撃に苦戦したアルマダが、避難した北海方面で嵐にあって大損害(難破・行方不明54隻)を出し、フェリペのイギリス作戦は10日で惨敗に終わった。

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 新大陸からの膨大な金・銀は戦費と奢侈のために消費されて晩年の国家財政は破綻に瀕し、アルマダの敗北で海上権を奪われ、この後スペインは没落の道をたどり始めるのであった。


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/05/12 05:34 】

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