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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー黒衣の王妃・カトリーヌ=ド=メディシス①

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カトリーヌ=ド=メディシス

 カトリーヌ=ド=メディシスはメディチ家最盛期の当主ロレンツォ孫のウルビーノ公ロレンツォとフランス王フランソワ1世の従妹マドレーヌとの間で1519年に生まれた。つまりイタリア人であるがフランス人の血もひいていた。

 誕生直後に両親を失い、枢機卿ジュリオ=デ=メディチ(後の教皇クレメンス7世)の保護下にフィレンツェで育ち、イタリア戦争渦中の1529~30年のフィレンツェ包囲戦では共和国側の人質として尼僧院に幽閉された。共和派が敗れて救出され、11歳のカトリーヌはローマに移り、教皇クレメンス7世の宮廷で華やかな生活を送った。

  カトリーヌは、背が高く頑丈な身体の持ち主で、美貌ではないが、頭の回転が速い快活で精力的、知的好奇心も旺盛で古典や芸術の教養もあった。

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教皇クレメンス7世

 教皇クレメンス7世は、フィレンツェのメディチ家政権を安定させるため、ハプスブルク家のカール5世とフランス王フランソワ1世の双方との婚姻を考えた。カール5世の娘マルガレーテと自分の子のアレッサンドロ(フィレンツェ公)とを結婚させる一方、カトリーヌをフランソワ1世の王子のアンリに嫁がせようとした。フランスのヴァロワ朝フランソワ1世も、カール5世と対抗上、メディチ家と結ぶことを有利と考えた。14歳になっていたカトリーヌは従兄の枢機卿イッポリトと恋愛関係にあったが、クレメンス7世は強引に彼女をフィレンツェに戻し、アンリとの結婚に同意させた。

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アンリとカトリーヌの結婚

 1533年10月、クレメンス7世とフランソワ1世の交渉がまとまり、カトリーヌは10万エキュの持参金つきでフランスの王子オルレアン公アンリと結婚した。カトリーヌは「フィレンツェの商人の娘」と陰口をささやかれながら、義父フランソワ1世をはじめとするフランスの宮廷人に受け入れられ、「とりわけ、周囲の人たちを楽しくする彼女の快活な気質が、人びとの心を魅了」し、音楽や狩り、乗馬を楽しみ、イタリアの料理法で食卓を豊かにした。

 国王ですら手掴みで食事をしていたフランス宮廷に、カトリーヌはナイフやフォークを使った食事作法を伝え、ハンカチを使うマナーを伝えた。商家の娘とバカにしていたカトリーヌから、世界最先端の文化を教えられ、さぞやフランス貴族は悔しかったに違いない。

 
そしてもう一つ特記されるのが、フランスに菓子(アイスクリーム、マカロンなど)文化を持ち込んだことだ。以後、フランス菓子は洗練され確立されていくこととなり、パティスリーの世界ではカトリーヌを「氷菓の母」「カトリーヌ姫」と呼んでいる。

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アンリ2世

 しかし、夫アンリは20歳年上の愛人ディアヌ=ド=ポワティエに入り浸り、結婚生活は不幸であった。それでも結婚10年目、25歳の時から次々と7人の子どもをもうけ、この間、1547年に夫は王位についてアンリ2世となると、王妃としての立場を揺るぎないものにした。

 試合
馬上槍試合

 1559年、アンリ2世はスペインとカトー=カンブレジ条約を締結し、長期にわたったイタリア戦争を終結させた。条約では13歳になるカトリーヌの娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世との婚約が取り決められていた。同年6月22日にパリで挙行された代理結婚式は祭典や舞踏会、仮面劇そして5日間にわたる馬上槍試合で祝われた。

 アンリ2世はディアヌのシンボル・カラーである黒と白の羽根飾りを身にまとって馬上槍試合に臨んだ。アンリ2世はギーズ公とヌムール公を破ったが、若いモンゴムリ伯との試合の時に、偶発的にモンゴムリ伯の槍が国王の顔面を突き刺した。アンリ2世は落馬し、顔面からは血が噴き出し、「とても大きな」破片が目や頭に突き刺さっていた。 アンリ2世はトゥルネール城に運び込まれ、ここで5つの木片が頭から引き抜かれたが、そのうち一つは眼球を貫通して脳に達しており、7月10日に亡くなってしまった。

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黒衣のカトリーヌ=ド=メディシス

 アンリ2世の死後、カトリーヌは「これが私に涙と痛みをもたらした」と刻んだ折れた槍のエンブレムを用い、アンリ2世を悼む黒い喪服を常に着用するようになった。

 カトリーヌは長い間不遇な宮廷生活を送って来た。強靱な神経と冷静な頭脳を持ち、およそ感傷性のひとかけらも持ち合わせぬカトリーヌは、夫の愛人ディアヌが専横を振るうのにじっと耐えてきた。その忍従の長い年月の間に、彼女の人生体験は研ぎ澄まされ、同時に権勢欲も内面深く蓄えられていった。

  
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フランソワ2世

 アンリ2世の死後、長男のフランソワ2世が即位した。彼はわずか15歳の少年である上に、耳鼻咽喉科系の先天性の持病を持ち、病弱であったため、王権が著しく弱体化する。

 王妃メアリ=スチュアートの外戚という立場を利用して宮廷で実権を握ったのは、カトリック強硬派の名門ギーズ家フランソワと弟のシャルルである。これに、ユグノー(フランスのカルヴァン派)で聖王ルイの血を引くブルボン家の当主アントワーヌと弟のコンデ公ルイ、コリニー提督が対抗する。さらに、イタリア戦争の終結により無為を強いられることになった群小の帯剣貴族も二派に別れて、この権力闘争に参加する。

 カトリーヌが「イタリア式」権謀術数を弄して王国の統一維持に努め、対立の構図をいっそう複雑にする。この三つどもえの抗争はさまざまな社会勢力を巻き込みながら激化の一途をたどり、王国を解体の危機にさらすようになっていった。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/05/19 05:24 】

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