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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー黒衣の王妃・カトリーヌ=ド=メディシス②

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シャルル9世

 フランソワ2世の王位は2年と続かなかった。1560年年末も近い晩秋、フランソワ2世は狩猟に出かけた帰りに耳の後ろに鋭い痛みを訴えて倒れ、中耳炎と診断された。侍医は開頭手術を提言したが母カトリーヌ=ド=メディシスはこれを拒絶、中耳炎は彼の脳葉にまで達し、脳炎を引き起こして1560年12月5日に死亡した。16歳であった。代わって10歳のシャルル9世が王位に就き、母カトリーヌは摂政となった。舞台は一変し、メアリ=スチュアートの退場とともに、ギーズ家も後退した。

 カトリーヌは王家存続のため、若い国王の摂政として権謀術数を駆使した。イギリス・スペインに対抗するためにはユグノー(カルヴァン派新教徒)の貴族と接近を図る一方、カトリックのギーズ家と接近したため、ついに新旧両教徒のの抗争による内乱、「ユグノー戦争」を誘発してしまう。

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ヴァシーの虐殺

 1562年3月、北フランスのヴァシーの町を通過したギーズ公の兵士が、礼拝中のユグノーへ攻撃をしかけた。74人が殺害され、104人が負傷した。それを聞くと、全国の新旧両派が武器をとり、フランスはたちまち騒乱に渦に巻き込まれた。

  それから1か月以内にコンデ公とコリニー提督は兵1800を動員した。彼らはイギリスと同盟を結び、フランス諸都市を占拠する。カトリーヌはコリニー提督と会見したが、彼は帰順を拒絶した。このため、彼女は「あなた達が軍隊に頼るならば、私たちのものもお見せしましょう」とコリニー提督に言い返した。国王軍はただちに反撃し、ユグノーの拠点ルーアンを包囲した。

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コリニー提督

 カトリック軍はルーアンを占領したが、その勝利の喜びは短かった。1563年、オルレアン包囲中にギーズ公が暗殺されると、カトリック教徒は息子のアンリを立てて、「邪教徒どもを焼き殺せ」と絶叫する。一方、ユグノーはコンデ公が戦死した後には、コリニー提督を指揮官にして抗戦を続けた。


 カトリーヌは、最初こそ新旧両派の対立を逆用して、二派を互いに噛み合わせ、王権の安泰を図ろうとした。が、内戦が長引くにつれて調停者の立場に転じた。1570年、両者は一時矛を収め、サン=ジェルマン=アン=レーの和議が成立し、ユグノーは大幅な信教の自由を認められた。

マルゴ 
マルグリット(通称マルゴ)

 カトリーヌは王室間結婚によってヴァロワ朝の権益をより一層確実なものとしようとした。1570年にシャルル9世は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇女エリーザベトと結婚し、彼女はまた2人の王弟たちのいずれかをイングランド女王エリザベス1世と結婚させようともしている。1568年に長女エリザベートが出産の際に死去すると、末娘のマルグリットをスペイン王フェリペ2世の後添えにとしつこく勧めていたが、彼女はヴァロワ家とブルボン家の王位請求権を統合すべくマルグリットとブルボン家のアンリとの結婚を画策するようになった。

 だが、マルグリットはギーズ公アンリと密かに恋仲になっており、このことを知ったカトリーヌは激怒し、娘を寝室から連れて来させると、王とともに彼女を叩き、寝間着を引き裂き、そして彼女の毛髪をひとつかみ引き抜いたという。

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アンリ=ド=ナヴァル(アンリ4世)

 アンリの母ジャンヌ=ダルブレは息子がユグノーに留まることを条件として、最終的に息子とマルグリットとの結婚に同意した。ジャンヌは結婚衣装を買うためにパリを訪れた際に病に罹り、44歳で急死してしまう。カトリーヌが手袋に毒を仕込み、ジャンヌを殺害したとも言われているが、ともかく2人の結婚式は1572年8月18日にパリ市内のノートルダム聖堂で挙行されることになった。アンリ、マルグリット、ともに18歳である。 

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コリニー暗殺未遂事件

 カトリーヌはギーズ家の専横を許せなかったが、一方でユグノーのコリニー提督もカトリーヌの重荷となりつつあった。コリニーはギーズ家が宮廷から後退して以来、シャルル9世の心をとらえ、シャルルは母に隠れてコリニーと密会を続けた。そして、コリニーに曳きずられて、旧教国スペインとの戦争計画に熱中した。カトリーヌは祖国の危険を避けるためにも、今は一刻の猶予もないことを悟った。

 婚礼は予定通り8月18日に行われた。続いて祝祭の行事が数日も続き、貴族も市民もお祭り気分に浮かされた。カトリーヌはその中で、一人陰謀を巡らせた。彼女はコリニーをどうしても除こうと決意し、挙げ句の果てカトリック教徒のギーズ公に密使を送った。彼女は悪魔の手で、悪魔を厄介払いする方法を選んだ。

 8月22日、ルーヴル王宮を出たコリニーに、突然銃砲が火を噴いた。彼は腕に負傷した。その報せを聞くと、シャルル9世はすぐ犯人を捜すよう厳重に命令する。カトリーヌは絶望的な境地に立たされた。もしギーズ公が捕まれば、嫌疑は当然彼女にまで及ぶだろう。彼女はその瞬間重大な決意を抱いた。コリニーはじめ、彼の負傷にいきり立つユグノーをすべて抹殺して、自分の罪を消し去ることである。

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サンバルテルミの虐殺

 聖バルテルミの祭日に当たる1572年8月24日が、その実行日に選ばれる。その夜、ギーズ公の兵士はルーヴル宮を急襲して、コリニーと婚礼に参集したユグノー貴族数十名をまず血祭りにあげた。ユグノーがコリニー提督襲撃への復讐を求めて武装蜂起するという噂を利用したカトリーヌの策略だったとされている。だが、これで事件が終わったわけではない。その後3日間にわたってパリのカトリック教徒の民衆が、3000名ともいわれるユグノーを襲い、虐殺したからである。

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虐殺跡を視察するカトリーヌ

 政治的暗殺に続く、狂信的な大量殺戮。ニュースは国じゅうを駆け巡り、オルレアン、トロワ、リヨン……で同じ残虐行為が繰り返される。カトリック教徒が死体を引きずりまわし、切り刻み、川に捨てる。フランス国内での犠牲者は膨大な数にのぼった。

 ナヴァル王アンリは虐殺こそ免れたが、1572年9月にはカトリックへの改宗を強制され、王宮内に幽閉の生活を約4年間余儀なくされる。脱出したのは1576年2月3日であった。

アンリ3世 
アンリ3世

 サンバルテルミの虐殺は新旧両派の争いを再燃させた。憎悪と復讐心が狂信と絡み合い、ユグノーは国内に解放地区を形成し、カトリック教徒は同盟を結んで同胞相食む悲劇を続けた。シャルル9世はこの日以来すっかり生気を失い、2年後の1574年5月30日に23歳で世を去った。

 弟のアンジュー公は3か月前にポーランド国王の戴冠式を挙行していたが、ポーランド王位を放棄してフランスへ帰国、アンリ3世として即位した。アンリ3世は礼儀の正しい、とり澄ました宮廷人であったが、政治の面では深い識見を表した。ただ、彼にはお小姓趣味というあまり芳しからぬ奇癖があち、カトリーヌの頭痛の種を増やした。パリの美女数十人を集め、一糸も纏わぬ夜会を催したが、王の情欲をかきたてるまでには至らなかったらしい。アンリ3世はとうとう生涯王妃を娶らなかった。


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ジャック=クレマンに暗殺されるアンリ3世

 アンリ3世は長い宗教戦争を解決するため、ユグノーとの和解を図った。ところがカトリック側は王の融和策を裏切りとみなし、ギーズ公を中心に反王権闘争を開始した。アンリ3世は身の危険を感じて、パリからブロワの城へ逃亡するよりほかはなかった。1588年12月23日、アンリ3世はギーズ公アンリを言葉巧みにブロワへおびき寄せて、謀殺した。その報せを聞くと、各地のカトリック同盟はいっせいに憤激し、パリではアンリ3世の王位を否認する決議まで行われた。

 1年後の1589年8月1日、アンリ3世は狂信的修道士ジャック=クレマンの短剣の一撃で打ち倒された。死の床で、アンリ3世は王位を義弟のナヴァラ王アンリに譲ることを遺言した。こうしてヴァロワ朝に代わってブルボン朝が開始され、アンリ4世によって漸く長い戦争に終止符が打たれることになる。

 カトリーヌはそれに先立つ1589年1月5日、ブロワ城で69年に及ぶ人生を終えた。残虐な王妃としてその悪名が語り継がれているが、コリニー提督暗首謀者が彼女であったという確たる証拠はなく、彼女に嫉妬した者やユグノーたちによってそのようなレッテルが貼られただけなのかも知れない。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/05/22 05:26 】

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