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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー女たらしの国王・アンリ4世

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アンリ4世

 アンリ4世は1553年、ブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌとフランス王フランソワ1世の姪であるナヴァラ女王ジャンヌ=ダルブレとの間に生まれ、王位継承権を持つ親王家の筆頭であった。しかし、母の影響で新教徒(ユグノー)となり、新旧両派の対立からついにユグノー戦争が起こると新教派の中心人物として人望を集めることとなった。

マルゴ 
マルグリット(通称マルゴ)

 国王シャルル9世の摂政であった母后カトリーヌ=ド=メディシスは新旧融和策をとり、その証として娘マルグリットとアンリを結婚させたが、一方で新教派の台頭を恐れ、1572年、二人の結婚式を祝して全国からパリに集まってきた新教徒を襲撃して多数を殺害した。これがサンバルテルミの虐殺である。

 この時アンリは難を逃れたが王宮に囚われの身となり、強制的にカトリックに改宗させられた。その後も宮廷に監禁されていたが、ようやく1576年に脱走し、新教徒に戻り、ギュエンヌ地方を基盤に新教徒軍を率いて戦った。

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アンリ3世              ギーズ公アンリ

 1585年からブルボン家のアンリは国王アンリ3世、旧教派「カトリック同盟」のギーズ公アンリ、との「三アンリ」の戦いが続き、彼はパリにはいることができず、各地を転戦し、「勇者中の勇者」とも言われた。

アンリ3世とナヴァラ王の和解 
アンリ3世とブルボン家アンリの和解

 その後、アンリ3世とギーズ公アンリが対立したため、彼はアンリ3世に接近し、王に子がなかったので王の死後、1598年に即位してブルボン朝を開いた。

 しかし、彼はすでにローマ教皇に破門されており、パリ市民をはじめ旧教徒は彼を王として認めなかったため、「国家なき国王」として各地を転戦した。旧教派内部も大貴族間の争いが続いて統一されず、またこのような状況につけこんでスペインが介入してきたため、アンリ4世は国家の統一を守るために改宗を決意、1593年にカトリックに入信した。

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ガブリエル=デストレ(右)とその妹

 1593年7月23日付で、アンリ4世がその寵姫ガブリエル=デストレへ送った書簡が残っている。25日(日曜日)の改宗を前に目前に控えて、アンリは次のように書いた。

  『この日曜日に、私はひとつトンボかえりを打つことにしています。』

 伝説だが、アンリ4世は、「ひとつとんぼがえりをうつことにする。パリを手に入れられるのなら、ミサ聖祭(旧教の)ぐらい受けてやることにしてもよい」と言ったとも伝えられている。あまり穿ちすぎているようだが、アンリ4世の物を物と思わぬ不逞さが窺える言葉だ。

 1593年7月25日、アンリ4世はサン=ドニ大聖堂で司祭の祝福を受けてカトリックに改宗した

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パリ入城

 その後、アンリ4世はスペインと戦って破り、カトリック派も抵抗をやめてアンリ4世を国王と認めざるをえなくなった。1594年、アンリ4世はようやくパリに入城し、ノートルダム寺院で民衆から「国王万歳」の歓迎を受け、ようやく統一を回復した。

 一方の新教徒はアンリ4世の改宗を非難し、なおも武装をつづけていたので、新国王は交渉を重ね、ようやく1598年に「ナントの王令」を出してユグノーの信仰を認めるとともに、その活動を制限することに成功し、宗教対立の解消を一応実現し、ここにユグノー戦争は終結した。

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シャンプラン

 その後王権の強化と国庫の再建、商工業の奨励に務めた。ユグノーの新教徒は商工業者が多かったので、平和の実現とともに生産力も上がった。統一の実現した後、海外植民地獲得に乗りだし、1608年にシャンプランが北米大陸のセントローレンス川中流域を探検し、その地にケベックを建設し、北米大陸進出の足場をつくり、その地はフランス領カナダとなった。


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マリ=ド=メディシス

 アンリ4世はカトリーヌ=ド=メディシスの娘の王女マルグリット(通称マルゴ)と政略結婚した。しかし、この結婚は不幸だった。マルゴは母に似ず美しかったと言うが、夫を愛することができず「ピレネーの山男」とさげすみ、愛人をつくっていた。夫アンリもマルゴには目もくれず、これまた沢山の愛人をもっていた。

  さて問題は2人に子供がなかったことだった。アンリは国王になると、マルゴを離婚しようとした。ところがカトリック教徒になったのだから離婚は認められない。特別に離婚を認めてもらうにはローマ教皇から、この結婚が間違えていたものであると認めてもらう必要がある。アンリが妃にしたかったのはガブリエル=デストレという女だったが、身分の低い女であったので、マルゴはプライドからローマ教皇に裏から離婚を認めないよう画策した。問題がこじれていくうちにガブリエルが病死した。

 そこで浮上したのがイタリアのトスカナ大公の姪マリ=ド=メディシスだった。アンリはメディチ家からの借財もあり、メディチ家側もカトリーヌに続いてフランス王と縁戚になれば有利だからローマ教皇に働きかけてくれるだろう。アンリの思惑通り、ローマ教皇がマルゴとの離婚を承認、1600年にマリとの結婚が成立した。アンリ46歳、マリは26歳だった。

 
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アンリ4世と家族

 2人はまだ顔さえ知らなかったが、1600年11月、マリは2000人のイタリアからの付き添いを引き連れてパリにやってきた。マリはフランス語も話せず、夫のアンリは相変わらずの好色ぶりで他に多数の愛人をつくっていたが、2人の間には6人の子が生まれている。だが、政略結婚である2人の仲は決して円満ではなく、多情なアンリ4世は多くの愛人を持ち、その数は56人以上に及んだとされ、国民はアンリ4世を「ヴェール・ギャラン」と呼んだ。「好色男」「女たらし」の意味である。

 一方、離婚されたマルゴの方は、その後も自由気ままな生活を送り、愛人と暮らしながら68歳まで生きたという。

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アンリ4世の暗殺

 1610年5月14日、アンリ4世は馬車に乗ろうとした際に狂信的なカトリック教徒のフランソワ=ラヴァイヤックに刺殺され、56歳で亡くなった。アンリ4世はサン=ドニ大聖堂に埋葬され、8歳の王太子ルイがルイ13世として即位し、成人する1617年まで母后マリが摂政として政務を執ることになった。 

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アンリ4世の頭蓋骨

 2010年12月15日のAFPニュースによると、アンリ4世の頭蓋骨とされるミイラ化した頭部が、本人のものであると証明されたと、フランス法医学チームが発表したという。

 アンリ4世の遺体は、パリのサン=ドニ大聖堂のブルボン家墓所に葬られていたが、フランス革命中の1793年、墓所から遺体が引きずり出され、バラバラにされた上で土中に埋められた。その後、掘り出された頭蓋骨はさまざまな人の手に渡り、行方が判らなくなっていた。

 今回発見されたアンリ4世の頭蓋骨といわれるものを、フランスのレイモンド=ポワンカレ大学病院のフィリップ=シャルリエ氏率いる法医学チームが調査し、当時の肖像画との一致、1594年の暗殺未遂事件の時の傷跡、放射性炭素年代測定、3DスキャナーによるX線撮影などによって確証が得られたとして、イギリスの科学誌ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに発表した。

 頭蓋骨は約200年ぶりにサン=ドニ大聖堂に戻された。アンリ4世は1610年に暗殺されているので、没後400年にして本来の墓地に帰ったわけだ。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/05/26 05:22 】

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