なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ルイ13世はアンリ4世と王妃マリ=ド=メディシスの長子として、1601年にフォンテーヌブロー宮殿で生まれた。
マリ=ド=メディシス
1610年、父アンリ4世が狂信的なカトリック教徒に暗殺されたことにより、ルイ13世は8歳で即位し、13歳になるまで母マリ=ド=メディシスが摂政を務めることになる。はじめは、摂政のマリとその一派(イタリア人コンチーニら)が実権を握ったが、大貴族たちは国王が幼少で摂政が女性であることをよいことに、さまざまな特権を国王に認めさせようと、1614年にブロワに三部会を招集した。しかし、三つの身分の利害の対立が明らかになり、なんら得るところなく終わった。これ以後、フランス革命の年、1789年まで三部会は開催されなかった。
リシュリュー
ルイ13世は成長するに従い、国王として親政を行うことを望むようになり、母后マリ=ド=メディシスを嫌うようになった。1617年にコンチーニらイタリア人の一派をクーデターで退け、さらにマリをブロワ城に閉じこめてしまった。しかし、権勢欲の強いマリは城を脱走してしまう。その後もさまざまな画策を行い、一時は国王派と母后派の両軍が対決することさえあったが、1621年に和解した。その両派の調停役として台頭したのがリシュリューであった。
リシュリュー1624年からは、宰相として深い信任を受け、その後18年間にわたりフランスのかじ取りを行っていくことになる。
リシュリュー1624年からは、宰相として深い信任を受け、その後18年間にわたりフランスのかじ取りを行っていくことになる。
ラ=ロシェル包囲戦
新教徒(ユグノー)はナントの王令以後も、完全な信仰の自由を要求して、特にラ=ロシェルは新教徒の独立した共和国のような形勢をみせていた。ルイ13世とリシュリューは王権による統一を脅かす存在として1626年にラ=ロシェル攻撃を開始。14ヵ月の包囲戦の末、1628年にこれを屈服させ、アンリ4世によって与えられたユグノーに対する政治的、軍事的特権を撤廃させた。信仰の自由は引き続き認められたものの、これ以後はフランスの新教徒の勢力は弱体化していく。
アカデミーは大革命期に一時解散したが、王政復古とともに復興、今日にいたっている。会員数は 40名に限られており、彼らは「不滅の人」と称される。欠員が生じた場合、全会員が候補者の資格、業績を審査、絶対多数を得たものを新会員とする。いわゆる「41番目の椅子」で待ったまま、会員になれず死去した著名人も数多い。デカルト、パスカル、モリエール、ルソーなども、その一人だ。
一旦は和解したルイと母親マリだったが、1618年に始まった三十年戦争への参戦問題で再び対立した。フランスは当初、旧教の神聖ローマ帝国皇帝軍を支援していた。しかし、戦争が長期化するうちにリシュリューはヨーロッパの勢力関係でハプスブルク帝国に対する優位に立つチャンスと考え、新教徒を支援しようとした。マリはハプスブルク家やスペイン、ローマ教皇と手を結ぶことを主張し、新教徒を助けるのに反対した。この問題でマリと対立したリシュリューも一時は参戦をあきらめたが、ルイ13世の決断はリシュリューに軍配を上げた。その結果、マリは捕らえられ、コンピエーニュ城に再び幽閉された。彼女は今度も城を脱出することに成功したが、もはやフランスには戻ることなく、ネーデルラントやイギリス、ドイツを転々とした後、1642年、ケルンで寂しくなくなった。
フランスは1630年に新教徒側を支援することを決定、スウェーデン国王グスタフ=アドルフに軍資金を提供した。しかし1632年、グスタフ=アドルフがリュッツェンの戦いで戦死したため、フランスは直接派兵をせまられることになり、1635年、フランスはオランダ・スウェーデンと同盟を結び、スペインおよびオーストリア(神聖ローマ皇帝)と戦うこととなった。
フランスは国内では厳しく新教徒を弾圧していながら、ドイツでは新教徒軍を扶け、同じ旧教国であるスペインと戦うことになったわけである。
フランスは1630年に新教徒側を支援することを決定、スウェーデン国王グスタフ=アドルフに軍資金を提供した。しかし1632年、グスタフ=アドルフがリュッツェンの戦いで戦死したため、フランスは直接派兵をせまられることになり、1635年、フランスはオランダ・スウェーデンと同盟を結び、スペインおよびオーストリア(神聖ローマ皇帝)と戦うこととなった。
フランスは国内では厳しく新教徒を弾圧していながら、ドイツでは新教徒軍を扶け、同じ旧教国であるスペインと戦うことになったわけである。
三十年戦争参戦はルイの王妃アンヌ=ドートリッシュにとっては耐え難いことであった。アンヌ=ドートリッシュは1615年に14歳で同い年のルイに嫁いだのだが、彼女はスペイン王フェリペ4世の姉であった。
もっともこの夫婦はルイがどうやら女性に興味がなかったらしく、仮面夫婦だったという。ルイ13世が愛人を抱えていた証拠はなく、そのため、彼は「純潔ルイ」のあだ名で呼ばれた。ホモセクシャルないしバイセクシャルだったのではないかとの噂が根強く残っている。
もっともこの夫婦はルイがどうやら女性に興味がなかったらしく、仮面夫婦だったという。ルイ13世が愛人を抱えていた証拠はなく、そのため、彼は「純潔ルイ」のあだ名で呼ばれた。ホモセクシャルないしバイセクシャルだったのではないかとの噂が根強く残っている。
それにも拘わらず何故か子供ができ、世間の人は不思議がった。何度か子供を流産した後は、2人が夜を過ごしたのは1回だけだったと言うが、そこで生まれたのがルイ、後のルイ14世になる人である。もっともアンヌはルイ14世が即位すると、やはりまだ若いことから姑のマリ=ド=メディシスと同じように摂政となり、息子の嫁に同じくスペイン王室からマリア=テレサを迎えることに成功する。
1642年12月4日、リシュリューが57歳で亡くなると、そのあとを追うようにして、ルイ13世は1643年5月14日に41歳で亡くなった。そのあとを僅か4歳のルイ14世が継ぐことになるのだが、その話は次回に。
写真は一番知られているルイ13世の肖像画だ。長いふさふさの黒髪だが、実はこれカツラ。ルイ13世は王妃の不貞などのストレスから若ハゲとなり、22歳でカツラを着用した。ところが、地毛との見分けがつきにくい現代のウイッグと違い、カツラであることは一目瞭然。かえってハゲていることを主張しているようなものだ。そこで、王さまがハゲであることを隠すために、王さまをとりまく貴族たちが全員カツラをつけた。皆でつければ、誰が本当のハゲか分からないとう訳だ。
写真は一番知られているルイ13世の肖像画だ。長いふさふさの黒髪だが、実はこれカツラ。ルイ13世は王妃の不貞などのストレスから若ハゲとなり、22歳でカツラを着用した。ところが、地毛との見分けがつきにくい現代のウイッグと違い、カツラであることは一目瞭然。かえってハゲていることを主張しているようなものだ。そこで、王さまがハゲであることを隠すために、王さまをとりまく貴族たちが全員カツラをつけた。皆でつければ、誰が本当のハゲか分からないとう訳だ。
ところが、カツラをつけてみると意外に格好いい。ということで、カツラがファッションとなってしまう。次第にカツラは華美になり、カツラを持つことがステータスと言わんばかりに、派手な作りとなっていった。
もともとはルイ13世の恥を隠すアイテムとして始まったカツラが、ヨーロッパのファッション界を一世風靡することになったのである。
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