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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー雅なる反乱・フロンドの乱



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ルイ14世

 1635年以来、フランスはスペイン・ドイツと全国境にわたる戦争を続けていた。戦線はフランスに有利で、1642年にはかなり深く敵の領地へ食い込んだ。

 この年の11月に宰相リシュリューが他界したが、およそ6カ月のち、1643年5月、ルイ13世の死が続いた。わずか4歳のルイ14世が即位し、王太后アンヌ=ドートリッシュが摂政となった。30余年前の危うい状況の再現である。

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アンヌ=ドートリッシュ

 アンヌはスペイン国王フェリペ3世の長女で、14歳の若さでルイ13世に嫁いだ。カトリックの篤信家として、ハプスブルク家の敵、ドイツの新教徒にテコ入れするフランスの対外政策を憂い、スペイン戦争では母国に情報を送っている。リシュリューを嫌って宰相打倒の陰謀にも荷担した。だが、流産を重ねたのち、未来の国王ルイを出産するに及んで、フランス王妃としての義務に目覚める。摂政に就任してからは宰相マザランを懸命に支えた。

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マザラン

 ルイ13世はその死の前に宰相の後継者として、枢機卿マザランを招いていた。無論、すでにリシュリューによっても認められていた人物である。イタリア出身で本名はジュリオ=マッツァリーニ。37歳の時にフランスに帰化した。マザランは、聖職者であるという点を別として、およそ前任者とは対照的であった。冷徹峻厳、「鉄の爪」を持ったリシュリューに比して、マザランは顔つきも人ざわりも穏やかで、人を「籠絡し、買収し、騙すこと」を得意とし、「霊妙な知恵才覚」を備えた器用人であった。

 また、マザランは摂政アンに寵愛され、この両者は恋愛関係、あるいは肉体関係さえも憶測されている。

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市中のバリケード

 マザランは1648年10月の三十年戦争の講和条約ウェストファリア条約でアルザスを獲得するなどの成功を収めた。しかし、前代のリシュリューに続き、国王の寵臣が強い権力を持つことに対して、貴族たちの反発も強まっていた。ましてや、マザランは外国人である。貴族たちは既得権の一つであった高等法院の法官が貴族以外の市民から採用(しかも売官によって)されていることにも反発していた。また都市の市民層や農民には、うち続く戦争の戦費を捻出するための重税に対する不満が強まっていた。

 マザランが三十年戦争による財政危機の克服のため、高等法院法官の俸給の4年間据え置きを発表すると、法官たちの反対運動がおこった。政府が法官を逮捕に踏み切ると、重税政策に反発していたパリ市民が1648年8月26日に蜂起し、市内各所にバリケードを築いた。こうして「高等法院のフロンド」が始まった。

 反乱軍はパリを包囲し、王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入。ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたとされているが、翌1649年1月にルイ14世とマザランはパリを一時退去、サン=ジェルマン=アン=レーへ避難せざるを得なくなった。ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれている。
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フロンド

 ちなみに、フロンドというのはこの頃パリの青少年の間で流行していた投石器のことである。警察が禁止して歩くと、少年たちは背後から石を飛ばした。その反抗的姿勢をもじって、政府反対派をフロンド党員と呼んだところから、フロンドの乱と呼ばれたとされる。

 この反乱はマザランが、三十年戦争で軍功のあった大貴族コンデ公を抱き込み、コンデ公の軍隊がパリを包囲、高等法院も妥協して、翌年に鎮圧された。

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コンデ公

 「高等法院のフロンド」は終わったのだが、1650年、今度は大貴族コンデ公が恩賞の少なさに不満を持って王室に反旗を翻し、多くの貴族も同調した。パリはコンデ公の指揮する反乱軍に占拠され、封建領主である貴族の基盤である地方で農民の反乱を扇動し反乱は全国に広がった。ルイ14世、摂政アンヌはパリを捨て、宰相マザランはドイツに亡命した。

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テュレンヌ将軍

 こうして「貴族のフロンド」はマザランを排除することに成功したが、貴族側も統一歩調がとれずに分裂していた。国王側はコンデ公と対抗できる三十年戦争の時の将軍テュレンヌを抱き込み、1652年夏にはパリ郊外で両軍の決戦が行われ、フロンド派が勝利した。しかし、コンデ公がスペインに援軍を頼んだことはパリの民衆の反発を受けて、高等法院の法官(法服貴族)も大貴族(軍服貴族)の復活を警戒して反乱は尻すぼみになり、1652年9月、コンデ公はパリを放棄して亡命、「貴族のフロンド」は終わった。

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グランドマドモワゼル

 1652年7月、フロンド派と国王派の決戦となったパリのサン=タントワーヌ門の戦いでは、フロンド派の女傑、25歳のモンパンシエ嬢(ルイ14世の従妹でグランドマドモワゼルといわれた)がひときわ人びとの目を引いた。

 この大令嬢がバスティーユの砲門をテュレンヌの王軍に開いてコンデ軍の退却を助けたのである。彼女は「マザランに対する反感と男勝りの冒険好きから、鎧に身を固めて反乱軍に荷担した」と言われる。しかし、マザランが言った「この砲撃が彼女の夫を殺したのだ!」という言葉は、公式には一生を独身で送った彼女にとって、何を意味するのか?

 大令嬢は反乱失敗後もルイ14世の従妹であったためで宮廷に残ったが、人一倍勝ち気な性格で、各国宮廷との縁談があったがことごとく断り独身をつづけた。マザランの言葉は、彼女がこの事件によってルイ14世の王妃たるべき運命を失ったことを意味するのかも知れない。

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ルイ14世のパリ入城

 1652年10月のルイ14世のパリ入城と翌年2月のマザランの帰還で、フロンドの乱はついに膜と閉じる。フロンドの乱の原因は、王権が中央集権化・官僚化を進めて強化されていくことに対する、既得権の喪失を恐れる貴族層の反乱であったが、それが全国的な内乱にまでなった背景には、都市の市民や農村の農民の重税に対する反発があった。そして当時のヨーロッパは「17世紀の危機」といわれる天候不順、凶作、不況と言った社会の疲弊があった。大きく言えば、中世封建社会から、近代市民社会への移行という大きな変化が始まった時期であった。
 
 そして反乱が鎮圧された結果、貴族の没落は進み、その反面としてフランス絶対王政を確立していく契機となったのである。
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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/06/02 05:31 】

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