なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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少年時代のルイ14世は女性に関心を示さず、母后アンヌ=ドートリッシュを心配させるほどだったが、20歳頃の1658年に母后の侍女との最初の恋愛沙汰を起こし、結局その女性は修道院に送られている。
マザランは蓄財に余念がなかった。官職売買、不正取引、国税の使い込み等々によって莫大な財をなした。1661年に彼が死んだとき、5000万フラン、今日の10億フランに相当する財をなしたといわれる。マザランは蓄財のために、貴族との縁組の駒として姪たち7人をイタリアから呼び寄せていた。
青年期のルイ14世が恋した相手はマザラン枢機卿の姪だった。、ルイ14世はその一人のオリンピア=マンチーニに恋したが、彼女はすぐに嫁いでしまい、次いでマリー=マンチーニと交際するようになった。若いルイ14世は本気で彼女を愛してしまい、愛妾ではなく王妃として結婚しようとした。
中傷によってマリーと自分との仲を裂かれたことを知った時、ルイは再び動揺したが、マリーは予定通り結婚に踏み切った。そして彼女が宮廷を立ち去る時、王は馬車まで見送って行った。ルイはため息をついたが、一語も発しなかった。それから王は馬車の扉のところでマリーに敬意を表して一礼したが、彼女は涙にくれていた。そして、馬車は出て行った。
これは余談であるが、コロンナ伯が一驚したことに、その新妻はまだ処女であったという。
しかし、先王たちと違いあからさまに不仲であった訳ではなく、1683年に王妃が死去した時、ルイ14世は「王妃が私に悲しみを与えたのはこれがはじめてだった」と嘆いたという。
1661年の夏、ルイ14世は、かつて革命で処刑されたイングランド王チャールズ1世の王女で、王弟オルレアン公フィリップの妖艶な公妃アンリエット=ダングルテールに魅かれ、フォンテーヌブロー宮殿の森で密会を重ねた。オルレアン公は男色家であり、アンリエットに性的関心を示さなかったため、彼女は淋しさから国王との不倫に走ったのである。
しかし、22歳の王と17歳のオルレアン公妃は、ルイ14世とは従兄妹であり、義理の妹である。フォンテーヌブローでの若き王の振る舞いは、王妃マリー=テレーズや王弟フィリップも知るところとなり、アンリエットがその当時のイングランド王チャールズ2世の実妹なだけに、母后アンヌ=ドートリッシュを「せっかく築きあげた(王妃の、そしてアンヌ自身の実家でもある)スペインとの同盟がご破算になったら...」と心配させる事態になる。
自分との不倫をカムフラージュしようとアンリエットは同い年の侍女ルイーズ=ド=ラ=ヴァリエールを王の偽の相手役としたところ、皮肉にも国王はルイーズに心変わりしてしまい、スキャンダルが大事になる前に収まった。
ルイーズは純粋で信仰が篤く、始めからルイに対して思わせぶりな行動をとったのでもなければ、秘密の関係となるのに自ら興味を示したのではない。彼女にとって初めての真剣な愛であった。ルイ14世はルイーズを深く寵愛し、1664年にヴェルサイユ宮で催された大祝典『魔法の島の歓楽』は彼女に捧げられたものとされる。敬虔な彼女は王妃に対する罪に苛まれ、1662年2月、突然王宮を出て、修道院に閉じ籠もった。ルイ14世はそれを知ると、修道院の玄関で熱心にかき口説いた。そして、彼女を王宮に連れ戻した。
1666年頃、ラ=ヴァリエールはライバルの出現に驚かされた。モンテスパン侯爵夫人と呼ばれる仇っぽい、雪の肌をした豊艶な美女である。侯爵夫人は結婚生活に失敗した後、パリに出て、国王の寵愛を一身に集めようとする不逞なな野望を抱いた。彼女は自己の成功を勝ち取るために、祈祷師ラ=ヴォアザンの「黒いミサ」へ通った。このミサでは、幼児や胎児が生贄に供されて、その血で願いを叶えようとする、魔女の祭礼に似た、残虐な儀式が営まれた。
その効果が現れたわけでもあるまいが、まもなくルイ14世はモンテスパン侯爵夫人に心を奪われた。傷心したラ=ヴァリエールは何度か逃亡を試みた、やっと1674年に修道院に入るのを許された。彼女が宮廷を去る日、沿道の市民はみな目に涙を浮かべて、馬車を見送った。ルイ14世との間に3人の子をもうけた彼女であったが、1710年に亡くなるまで、二度と外へ姿を現さなかった。
モンテスパン侯爵夫人は8人の子を生み、1667年からおよそ10年間にわたり王妃をしのぐ権勢で宮廷社交界の花形として君臨した。しかし、 1679年からルイ14世はマリー=アンジェリク=ド=フォンタンジュを寵愛するようになった。彼女は若く美しい女性だったが知性には欠けていた。彼女は1680年に子を生み、フォンタンジュ公爵夫人の称号を与えられるが産後は体調を崩してしまう。ルイ14世の寵愛がマントノン夫人に移ったこともあり、宮廷を辞して修道院に入り1681年に20歳の若さで死去している。
その頃に祈祷師ラ=ヴォアザンが逮捕され、彼女のもとで「黒ミサ」の儀式が行われていたことが明らかになった。多くの貴族が彼女の顧客となり、その中にはモンテスパン侯爵夫人もおり、支配階級にも及ぶ大醜聞事件となった。フォンタンジュ公爵夫人の急死はモンテスパン侯爵夫人の毒殺によるものとの噂が立てられ、さらにはラ=ヴォアザンの娘がモンテスパン侯爵夫人はフォンタンジュ公爵夫人だけではなく国王の毒殺まで謀っていたと証言する。検察が早々に裁判を打ち切ってことは止み沙汰になったが、これを期にルイ14世はモンテスパン侯爵夫人を遠ざけるようになり、無視と軽蔑に耐えながらなお数年間宮廷にとどまっていた彼女が遂に修道院入りを決意すると、国王は喜んで彼女を送り出したという。
マントノン夫人は詩人で新教徒のアグリッパ=ドービニーの孫娘である。少女時代にカトリックに改宗し、16歳で42歳の流行作家ポール=スカロンと結婚した、しかし、8年後に寡婦となったため、宮廷に仕えて、モンテスパン侯爵夫人の子供たちの養育係を務めていた。美人ではないが教養のある知識人で控えめな女性だった。彼女にルイ14世は関心を持ち寵愛するようになり、侯爵夫人の称号を与えた。
1683年7月30日に王妃マリー=テレーズが世を去り、それから程ない同年10月9日頃にルイ14世はマントノン侯爵夫人と秘密結婚をした。この時、ルイ14世は46歳、マントノン侯爵夫人は3歳年上の49歳であり、王は若さや美しさとは別の点で彼女を愛していたと考えられ、この後、王の女性遍歴は止むことになった。
これら著名な愛妾以外にも、女優や掃除女とのゆきずりの性的な関係もあり、ルイ14世には20人を超える子供がいた。しかし、嫡出子のほとんどが幼少期に死んでおり、唯一成年に達した王太子ルイも1711年に死去してしまう。
ルイ14世は1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前に壊疽の悪化により死去した。男子の孫は一人も残っておらず、結局ひ孫のルイ15世がわずか5歳で即位することになった。
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