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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー戦争屋ヴァレンシュタイン・三十年戦争①

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ファルツ選帝侯フリードリヒ

 ドイツの宗教戦争は17世紀に入って再び重大化した。ドイツでの新旧両教徒の争いは、1555年のアウクスブルク和議以後もやむことなく、新教徒は1608年ファルツ選帝侯フリードリヒを盟主として新教連合(ウニオン)を結成した。これに対して旧教側は翌1609年にバイエルン選帝侯マクシミリアンのもとに旧教連盟(リガ)を形成し、それぞれが外国勢力とも連絡を保ちつつ、敵意を燃やしていった。

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プラハ城

 チェコの首都プラハは、独特の香気を放つ古都である。1618年5月23日、ベーメン王国の首都プラハも、静かな朝を迎えていた。9時を過ぎた頃、プラハ城におかれた王宮に集まっていた顧問官たちは、時ならぬ騒ぎに気づいた。200人ほどの武装した新教徒たちが、いきなり王宮に侵入して来たのだ。侵入者は最初から語気荒く、怒りをあらわにしている。 

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プラハ王宮窓外放出事件

 侵入者たちは、時のベーメン国王の宗教政策に抗議して、顧問官たちに激しく詰め寄った。押し問答を繰り返すうちに、激昂した新教徒たちは、突然、執務室の窓から、2人の顧問官を外に放り出した。「何をするのか」と抗議した秘書官も、同じように放り出された。

 地上20メートル、プラハの王宮フラチャニ城の塔にあった執務室の窓から、悲鳴をあげながら降嫁した3人は、城の濠にうずたかく積み上げられたごみ溜の中に着地し、奇跡的に一命をとりとめた。命からがら逃げ出そうとする3人にむかって、新教徒たちは、塔の窓からなおも小銃を発砲し続けた。

 「プラハ王宮窓外放出事件」として知られるこの悲喜劇は、17世紀のヨーロッパ史上、もっとも有名なエピソードである。これがヨーロッパ全域を巻き込んだ一大戦役、三十年戦争の発端である。

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ルドルフ2世

 神聖ローマ帝国に属するベーメンは、15世紀にヤン=フスの宗教改革を経験して苛、複雑な宗教構成を持つ王国として知られた。放出事件が起こる17世紀初頭には、ルター派、カルヴァン派、カリクスト派(フス派の一部)、再洗礼派が共存し、カトリックは少数派。この王国を、神聖ローマ皇帝にしてカトリックの王者たるハプスブルク家が支配するようになったことが、放出事件の遠因である。

 もちろん、ハプスブルク家も、最初からベーメンにカトリック信仰を強制しようとしたわけではない。16世紀後半に皇帝となったルドルフ2世は、ハプスブルク家の首都をプラハに定めたが、新教徒が多数を占めるこの国の事情に配慮して、ゆるやかな宗教政策をとることで我慢した。ベーメン議会も、家督争いの絶えないハプスブルク家の弱点を巧妙に利用して、一時は完全な信仰の自由を国王に約束させたほどである。

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フェルディナント2世

 この微妙な関係を崩したのが、1617年にベーメン国王になった、ハプスブルク家のフェルディナント。次の神聖ローマ皇帝を狙う、野心家のカトリックの強硬派である。新国王の態度に新教徒弾圧の兆しを感じ取った議会は、信仰の自由を認めたルドルフ2世の約束を再確認すべし、いきり立つ。だがフェルディナントは、ウィーンに出かけて留守だ。では、留守を預かる顧問官に直談判するしかあるまい……。これがプラハ放出事件のいきさつである。

 プラハの放出事件は、たちまちベーメンの反乱に発展した。翌年、ベーメンの新教徒は、今や皇帝となったフェルディナント2世を王位から追放し、代わりにファルツ選帝侯をベーメン王に迎えた。が、ベーメン軍は翌年ドイツ皇帝軍に撃破され、敗れたファルツ選帝侯はじめ貴族らはライン地方へ逃れて、ひとます内乱は終結した。

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クリスチャン4世

ところが、1625年になって、デンマーク王クリスチャン4世が新教徒6万を率いてドイツへ侵入したため、再び事態が重大化した。旧教連盟はバイエルンの名将ティリーのもとに兵を集め、さらにヴァレンシュタインを起用してデンマークに当たった。

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  ヴァレンシュタイン

 ヴァレンシュタインはベーメンの新教徒の貧乏貴族に子に生まれ、ドイツ・イタリアの大学に学んだが、素行不良で放校されたこともある。軍人としてハプスブルク家に仕え、この間、カトリックに改宗。ベーメンの反乱では皇帝を支持して反乱を鎮圧し、ベーメン北部の土地・財産を没収して巨富を積んだ。1625年、皇帝の依頼により5万の傭兵を自費で募集、皇帝軍司令官としてデンマーク軍にあたった。

 デンマーク軍は最初の勢いもどこへやら、翌年ルッテルの戦いで大敗して、早くも帰国の途についた。クリスチャン4世の惨めな敗因の一つは、イギリスが約束した毎月30万フロリンの戦費の支払いを果たさず、兵士の給料が払えなくて軍の規律が頽廃したことにあったというが、これは当時の軍隊の性格をよく示している。

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傭兵

 封建貴族がすすんで君主のもとに馳せ参ずる中世の軍隊から、絶対主義国家の常備軍形勢までの過渡期であるこの時代には、金につられて集まるにわかづくりの傭兵隊が軍の主力であった。ここに、兵隊を集めて自分ごと君主に売り込む戦争屋、傭兵隊長が活躍する原因があった。

 一番スケールの大きい戦争屋がヴァレンシュタインであった。シラーによると彼のプラハの邸館には、6つの門が通じ、日常の食卓は100皿を下ることがなく、旅行の際は6頭立ての馬車100台に召し使いや調度品を乗せ、王侯を凌ぐ勢いであったという。

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ジャック=カロ「被絞首刑者の生(な)る樹」

 戦争屋である傭兵隊長にとっては、戦争こそが生活の基礎であり、出世の梯子であった。彼らを動かすものは大義名分ではなくて、支払われる報酬の多寡であり、支払いが遅れれば、ただちに「金がなくては戦はできぬ」とばかり陣列から引き揚げるのである。

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ジャック=カロ「農家の略奪」

 その反面民衆からの略奪は猛烈を極めた。1631年、ティリーの率いた皇帝軍はハンザ同盟都市マグデブルクを食料や物資の調達目的で包囲した。半年におよぶ籠城の末、陥落したマグデブルクにおいて皇帝軍の傭兵隊は歯止めのない残虐行為を行った。3万人の市民のうち生存者はほぼ女性のみの5000人で、彼女たちも大半が軍に連れ去られたため、ウェストファリア条約締結時の人口は500人以下であった。 

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/06/09 05:30 】

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