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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー北方の獅子王グスタフ=アドルフ・三十年戦争②

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ヴァレンシュタイン

 デンマークとの戦いに活躍したヴァレンシュタインであったが、皇帝の権力強化を恐れた諸侯は彼の罷免を求めた。自分の子供を帝位につけるため諸侯の好意を必要としていた皇帝は、1630年、ついにこの圧力に屈服した。

 裏切られたヴァレンシュタインは心に怒りの炎を燃やしながら、さすがにまだ皇帝に楯つく決心はつかなかった。彼は軍隊を解散してベーメンに帰り、ヨーロッパの戦雲のあいだに自分の運命の星がもう一度輝くチャンスを待った。

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グスタフ=アドルフ

 ヴァレンシュタインが皇帝にもう一度自分を必要とする時が来ると確信していたのには理由があった。それはスウェーデン王グスタフ=アドルフが大軍を率いて6月24日に北ドイツに上陸していたからである。

 スウェーデンは当時フィンランドをも含む広い領土を持っていたが、人口はわずか150万、国は貧しかった。グスタフ=アドルフは16歳で王位を継いだが、幼少の頃から厳しい新教主義の訓育を受け、武術を磨くとともに、古典を学び、すぐに7カ国語を自由に操った。

 彼はバルト海を中心に一大帝国を建設しようと夢み、デンマーク、ロシア、ポーランドと戦ったのち、ドイツへ英姿を現した。

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ティリー

 グスタフの軍隊は、たちまち中部ドイツに侵入し、翌1631年秋にはブライテンフェルトで不敗の将軍ティリーの率いる皇帝軍を散々に打ち破った。あとは遮るものもなく西へ進んでライン中流地方を占領、32年には南ドイツに入って旧教連盟の指導者バイエルン選帝侯の都ミュンヘンを陥れた。ここから皇帝の領土オーストリア国境まであと100キロとは離れていない。

 慌てふためく皇帝側に残された道はただ一つ、ヴァレンシュタインの召還以外になかった。ヴァレンシュタインは先の罷免で懲りたのか、今度はドイツ全軍に対する無制限な指揮権と賞罰の全権という法外な条件をつけて、初めて受託した。こうなるとドイツ軍に対する統帥権は完全に皇帝から離れ、全軍がヴァレンシュタインの私兵と変わらなくなった。

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グスタフ=アドルフの戦死

 グスタフとヴァレンシュタインは、それぞれ6万を越える大軍を率いて南ドイツのニュルンベルクで戦ったが、双方とも半分以上の兵を失い、戦場は再び中部ドイツに移された。その年の11月中旬、2人の英雄は全ヨーロッパの注目のうちにリュッツェンの決戦に臨んだ。

 ライプチヒに向かう街道をはさんで両軍あわせて4万が対峙した。晩秋の冷たい霧の晴れかかる午前11時ごろ戦闘が始まった。スウェーデン兵は「神明の加護あれ」、皇帝軍は「イエズス=マリア」の喚声をあげながら襲いかかった。やがて騎兵も歩兵もいり乱れ、凄まじい白兵戦となり、両軍とも総司令官が陣頭に立って戦った。

 グスタフ=アドルフは負傷のため甲冑をつけられなかったので、皮の軍服にラシャの上着をはおり、馬にまたがって自軍の左翼を指揮していた。そのうち右翼が敵の攻撃に浮き足立ったとの報せを聞き、騎兵連隊を率いて味方を救いに駆けつけようとした。近視だった王は敵に近寄りすぎたため敵の小銃兵に狙われて左胸を撃たれた。さらに退く途中、第2弾を背にうけて落馬した。皇帝軍は彼の死体めがけて殺到し、スウェーデン軍もそれを奪い返そうと突撃したので、王の死骸は死人の山に埋まった。

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ヴァレンシュタインの暗殺

 戦いは夜に入って、スウェーデンの勝利に帰したが、敵も味方も奔命に疲れ、まもなくヴァレンシュタインはベーメンへ帰郷した。帰郷するや、彼は突然転向し、皇帝を無視して単独で新教側との和平をはかろうとしたが、1634年に部下にそむかれて暗殺された。その強大化を恐れた、皇帝が暗殺を命じたとの説もある。

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スウェーデンに運ばれるグスタフの遺体

 リュッツェンの曠野にはスウェーデン軍4000、皇帝軍6000の死体が累々と残されていた。だが、勝ったとはいえ、スウェーデン軍の痛手もあまりにも大きかった。彼らの王の遺体は、長い間探したあげく、折り重なった死体の下から、見分けられぬほど変わり果てた姿で引き出された。王冠を戴く身でありながら、こんな勇敢な兵士のような死を遂げた王も珍しい。「獅子王」の名にふさわしい最期であった。

 ヴァレンシュタインが暗殺された年、スウェーデン軍もスペイン軍の援助を受けた皇帝軍にネルドリンゲンで決定的な敗北を喫した。

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リシュリュー

 ところで、フランスのリシュリューは、三十年戦争を宿敵ハプスブルク家を苦しめるための最上の機会と考えて、長いあいだ自国を戦いに巻き込まずに、戦争を長引かせることに秘術を傾けてきた。彼はそのために、ドイツの新教徒を援け、またグスタフ=アドルフにも密かに資金を提供し続けた。が、今やスウェーデンが敗北し、スペイン軍が勝利を欲しいままにすると、ついに1635年、自国の軍隊を動員して、ドイツ・スペインに宣戦を布告した。

 こうして三十年戦争は最後の段階を迎えた。すでにこの戦争は本来の宗教戦争の性格はもちろんのこと、1635年、皇帝と新教諸侯の間に妥協が成立してからは、国内戦争としての意味もほとんど失っていた。それはただヨーロッパの支配権を争う2つの強大なカトリック勢力、すなわちオーストリアとスペインの2つのハプスブルク家と、フランスのブルボン家との国際戦争としてだけ戦われ続けたのである。なお、スウェーデン軍も依然ドイツに留まっており、この4つの国の軍隊がドイツを戦場として戦った。フランス=スウェーデン軍がやや優勢とはいえ、たがいに決定的な勝利がないまま、これから10年以上もドイツの北から南まで押されてはまた押し返す死闘を繰り返した。

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傭兵軍による掠奪

 この間、戦争に飽いた傭兵軍の掠奪暴行はますます激しくなるばかり、町や村も荒廃し尽くした。1648年のウェストファリア条約で三十戦争は終決したしたものの、ドイツに取りついた死に神の鋭い爪は、深い深い傷痕を残したのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/06/12 05:24 】

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