なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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「私は生まれながらのジェントルマンである」とみずから称したように、クロムウェルはハンティントンの裕福なジェントリ(郷紳)の家に生まれた。ピューリタニズムの強いケンブリッジ大学に進んだが、父の死により1年で中退し、ロンドンに出て法律を勉強した。学生時代のクロムウェルは聖書をあらゆる書物に勝るものと考え、繰り返しこれを読んで、自分で解釈し、聖書の言葉がそのまま彼の言葉となった。
21歳の時エリザベスと結婚した後、故郷に帰り、父の残した所領の経営に従事し、議会に出たこともあったが、11年間の無議会政治の時代にはジェントルマンとして表面静かな田園生活を送っていた。しかし、彼はこのころ信仰上のスランプに陥り、医師から憂鬱症という診断を稀有、「癇癖【かんぺき】が強く、妄想に囚われている」とされた。これは彼の霊的な苦悶の結果で、深い罪の意識が彼の霊を根本から脅かしたからだ。しかし彼は祈り、聖書を読み、説教を聞くうちに、信仰に目覚め、一人の確信あるピューリタンとして立つことになった。そして、彼はこの感謝の念を公の実践によって示そうとした。
鉄騎隊
1640年、41歳でケンブリッジ市から庶民院(下院)議員に選出され、長期議会の議員として活躍した。1642年、内乱の勃発は彼に軍人としての使命を負わせた。
彼は弱体な議会軍を憂えて、ピューリタニズムを精神的絆とする騎兵隊を編成した。この騎兵隊はヨーマン(独立自営農民)を中核とし、訓練はこの上もなく厳格で、俸給をきちんと払い、王党軍のように酒を呑んだり賭けをしたり暴行をはたらいたりする者がなく、戦闘の前夜には全員が跪いて祈祷した。1644年7月のマーストン=ムーアの戦いで、クロムウェルの騎兵隊は大いに威力を発揮し、「鉄騎隊(アイアンサイド)」の渾名を得た。
彼は弱体な議会軍を憂えて、ピューリタニズムを精神的絆とする騎兵隊を編成した。この騎兵隊はヨーマン(独立自営農民)を中核とし、訓練はこの上もなく厳格で、俸給をきちんと払い、王党軍のように酒を呑んだり賭けをしたり暴行をはたらいたりする者がなく、戦闘の前夜には全員が跪いて祈祷した。1644年7月のマーストン=ムーアの戦いで、クロムウェルの騎兵隊は大いに威力を発揮し、「鉄騎隊(アイアンサイド)」の渾名を得た。
ネーズビーにおけるクロムウェル(馬上左の人物)
「鉄騎隊」にならって編成された「新型軍」は、1645年6月のネーズビーの戦いで決定的な勝利を勝ち取り、チャールズ1世は議会軍にひき渡された。1649年、クロムウェルは国王チャールズ1世を処刑、イギリスに最初で唯一の共和政(コモンウェルス)を実現させた。
権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。
権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。
チャールズ1世が処刑され、その子チャールズがフランスに亡命すると、アイルランドでは彼を国王チャールズ2世として迎えると宣言した。クロムウェルは国内で水平派を武力で押さえた後、1649年夏、アイルランドの王党派を掃討するという名目でみずから1万2000の軍を率いてダブリンに上陸し、王党派・カトリック勢力を弾圧した。その際、一般市民も含む大量虐殺が行われた。
この遠征は給与の不払いなどで不満を持つ軍隊に対する恩賞として、没収した土地が与えられた。没収地はロンドンの投機家たちにも与えられ、アイルランド人の土地の40%が奪われたという。これ以来、アイルランドはイギリスにとっての安価な食糧と原材料を供給する「植民地」と化した。
この遠征は給与の不払いなどで不満を持つ軍隊に対する恩賞として、没収した土地が与えられた。没収地はロンドンの投機家たちにも与えられ、アイルランド人の土地の40%が奪われたという。これ以来、アイルランドはイギリスにとっての安価な食糧と原材料を供給する「植民地」と化した。
チャールズ2世がスコットランドに渡って拠点を作り、イングランドへの南下の動きを示すと、クロムウェルは同じく王党派の撃滅を口実に、1650年にスコットランド遠征を行い、1651年9月のウースターの闘いでスコットランド軍を破った。これによってスコットランドはイングランドに吸収され、1654年4月には合邦が宣言された。
17世紀に海上貿易に進出したイギリスにとって、最大のライバルはオランダだった。1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの貿易競争で優位に立とうとした。
それに対してオランダは強く反発し、翌1652年から第1次英蘭戦争(イギリス=オランダ戦争)が始まった。イギリスは海軍が優位に立って戦いを進め、1654年のウェストミンスター条約で講和し、オランダに航海法を認めさせた。
ピューリタン革命を勝利に導いたクロムウェルは1653年、長期議会を解散させ、議会の定めた「統治章典」を受諾して護国卿となってから、1658年の死まで独裁者としてイギリスに君臨した。
左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。
左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。
議会(下院のみの一院であった)はクロムウェルに国王の称号を与えようとしたが、さすがにそれは拒否した。しかし、殿下と呼ばれ、後継者を指名することができ、第二院を設けてクロムウェルが議員を任命できるようにした。まさに実質的な国王となったといえるが、インフルエンザにかかり1658年9月3日に死んでしまう。
その子リチャードが護国卿に就任したが議会も混乱し、リチャードは人望が無く調停に失敗しわずか8ヶ月で辞任してしまった。その後、議会は王政復古に動くことになる。
クロムウェルの遺体はウェストミンスター寺院に鄭重に安置された。ところが王政復古となり、クロムウェルが国賊として非難されると、その棺はあばかれ、遺体はタイバーン刑場で絞首刑の後斬首され、首は鉄の棒の先に突き刺されてウェストミンスター=ホールの屋根に掲げられ、その後24年間もさらしものにされた。
ところが1685年、大嵐がロンドンを襲い、クロムウェルの首は棒の先から落ちてしまった。守衛の一人がその首を自宅に持ち帰り、自宅の煙突のなかにかくし、娘にだけその秘密を明かして死んだ。どのような経緯か明らかではないが、1710年頃、この首が売りに出され、買い取ったものが見せ物にして金を稼いだという。
その後も何人かの手を経て、1814年ウィルキンソンという人が買い取って、家宝として保存、1960年にウィルキンソン家の当主がクロムウェルの出身校であるシドニー=サセックス大学に贈ることとし、現在では同校構内に埋葬されているという。
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