なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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チャールズ2世は1630年にチャールズ1世の次男として生まれたが、兄は幼くして亡くなったので、実質的な嫡男だった。ピューリタン革命の危険が高まったため、1646年に母たちとフランスに亡命したが、イングランドに残った父チャールズ1世は、1649年1月30日に処刑された。
ウースターの戦い
革命に反対するスコットランドは1649年2月5日、チャールズをスコットランド王として推戴すると宣言したため、6月にスコットランドに上陸。1651年1月1日にスクーンで正式に戴冠式を挙げた。しかし、同年にスコットランドへ侵攻してきたクロムウェル軍にウースターの戦いに敗れ、再びフランスに亡命、その後ネーデルラントのブリュージュに移った。
チャールズの帰還
1658年にクロムウェルが死去すると、息子のリチャード=クロムウェルが後を継いだが、混乱を収拾できずに1659年に辞任。スコットランド駐留軍の司令官ジョージ=マンクがスコットランドから進軍して1660年3月16日に長期議会を解散、チャールズら王党派と連絡を取り復帰を要請した。これを見てチャールズは、ブリュージュからブレダに移り、4月4日にブレダ宣言を発して復位を提案、この宣言が4月25日に選挙で王党派が多数派になった仮議会に受諾され、チャールズは5月29日にロンドンに入城してイングランド王チャールズ2世となった。
ブレダ宣言は、新しい土地所有者の所有権の保障、革命関係者の大赦、信仰の自由、軍隊給与の支払いの保証など、つまり絶対王政を復活させないことを約束したもので、議会はこの条件を入れてチャールズのイギリス国王即位を認め、王政復古となった。しかし即位後のチャールズ2世は、ブレダの宣言に反してカトリックの復興をはかるなど、議会に対立して絶対王政の復活を策した。
ブレダ宣言は、新しい土地所有者の所有権の保障、革命関係者の大赦、信仰の自由、軍隊給与の支払いの保証など、つまり絶対王政を復活させないことを約束したもので、議会はこの条件を入れてチャールズのイギリス国王即位を認め、王政復古となった。しかし即位後のチャールズ2世は、ブレダの宣言に反してカトリックの復興をはかるなど、議会に対立して絶対王政の復活を策した。
ウェストミンスター寺院
翌1661年4月23日にウェストミンスター寺院でチャールズ2世は正式に戴冠式を挙行したが、ピューリタン革命で中世以来受けつがれてきた王冠、王笏、宝珠はすべて溶かされ貨幣として鋳造されてしまっていたので、すべて新たに造り直さなければならなかった。
同じ日に戴冠式に先立ってウェストミンスター寺院に埋葬されていたクロムウェルの遺体は王殺しの罪で絞首刑に処されたのち、その首は晒しものとされた。
同じ日に戴冠式に先立ってウェストミンスター寺院に埋葬されていたクロムウェルの遺体は王殺しの罪で絞首刑に処されたのち、その首は晒しものとされた。
ドーヴァー城
チャールズ2世は、1665年からは第2次英蘭戦争を起こした。1665年にはペストの流行、1666年はロンドン大火が続いたが、この頃までは議会とも協力して難局を乗り切った。しかし、1670年5月22日、チャールズ2世はフランスのルイ14世と「ドーヴァーの密約」を結んだ。この密約によって、フランスから多額の資金援助を受ける代わりに、フランスのオランダ侵略を支援することや、チャールズ2世が適当な時にカトリックであることを宣言することが約束された。
ルイ14世
チャールズ2世の母親はアンリ4世の娘なので、ルイ14世とは従兄の関係になる。つまりチャールズ2世は従兄を頼ってフランスに亡命したわけだ。自分の父親は国民に裁かれて処刑されたのに対し、ルイ14世は絶対王政の全盛期である。
チャールズ2世には父チャールズ1世を破滅に導いたような神に対する王の政治責任という信念は少しもなかったが、従兄が持っているような無制限の権力を羨ましがった。宗教に関してもほとんど関心がなかったと言ってよいが、カトリックが君主にとって最も便利な宗教であると考え、出来れば、イギリスをカトリックの国にしたいくらいに思っており、密かにカトリックに改宗していたのだった。段階的なカトリック復帰を策したチャールズ2世は、1672年に「信仰自由宣言」を出し、カトリックを公認しようとした。
議会はチャールズ2世のカトリック復興策に反発して、1673年に審査法を制定、また1679年には人身保護法を制定して市民の権利の保護を図った。
チャールズ2世には父チャールズ1世を破滅に導いたような神に対する王の政治責任という信念は少しもなかったが、従兄が持っているような無制限の権力を羨ましがった。宗教に関してもほとんど関心がなかったと言ってよいが、カトリックが君主にとって最も便利な宗教であると考え、出来れば、イギリスをカトリックの国にしたいくらいに思っており、密かにカトリックに改宗していたのだった。段階的なカトリック復帰を策したチャールズ2世は、1672年に「信仰自由宣言」を出し、カトリックを公認しようとした。
議会はチャールズ2世のカトリック復興策に反発して、1673年に審査法を制定、また1679年には人身保護法を制定して市民の権利の保護を図った。
チャールズ2世は父チャールズ1世のような野心は抱かず、日々の政治は大臣や議会に任せた。議会は一度を除き、毎年開催した。その治世には、ペストの流行、ロンドン大火、オランダとの戦争などの苦難があったが、議会の協力で乗り切った。
しかし、一つだけ問題があった。彼は稀代の女好きであった。ブリュージュに亡命中にも、お気に召した女たちを左右に侍らせ、快楽に耽った。王政復古後の1662年5月21日にポルトガル王女キャサリンを王妃に迎えた。彼女はイギリス宮廷に茶を飲む習慣をもたらしたと言われているが、もう一つ大事なものをイギリスにもたらした。持参金として、イギリスの重要な植民地となったインドのボンベイ(現ムンバイ)を持ってきたのである。
しかし、一つだけ問題があった。彼は稀代の女好きであった。ブリュージュに亡命中にも、お気に召した女たちを左右に侍らせ、快楽に耽った。王政復古後の1662年5月21日にポルトガル王女キャサリンを王妃に迎えた。彼女はイギリス宮廷に茶を飲む習慣をもたらしたと言われているが、もう一つ大事なものをイギリスにもたらした。持参金として、イギリスの重要な植民地となったインドのボンベイ(現ムンバイ)を持ってきたのである。
部類の女好きチャールズ2世は多くの愛人を持った。結婚前からシャティヨン公爵夫人イザベル=ド=アンジェリク、ルーシー=ウォルター、エリザベス=キリグリュー、キャサリン=ペッグ、バーバラ=パーマーなど数多くの愛人があり、以後もネル=グウィン、ルイーズ=ケルアイユ、オルタンス=マンチーニ、フランセス=ステュアート、モル=デービスなど多くの愛人を持った。また、認知しただけでも14人の庶子があり、愛人及び彼女たちが産んだ庶子たちに大盤振る舞いの叙爵や屋敷をあてがい「陽気な王様」の渾名を取った。
なお、あまりの艶福家だった王を見かねた殿医のドクター・コンドームが王のために牛の腸膜を使った避妊具を開発したのがコンドームの始まりと言われているが、そんな医師がいたという史料は存在しない。
愛人との間にはたくさんの子を造ったが、肝心のキャリン王妃との間には世継ぎが生まれなかった。庶子には王位継承権がないので、弟のヨーク公爵(後のジェームズ2世)が王位継承者となった。しかし、彼は公然たるカトリック教徒であったため、議会ではカトリック教徒の王位継承を認めないという法案が上程された。「怠惰王」とも渾名されていたチャールズ2世であったが、この時だけは貴族院に足繁く通い、法案を阻止しようとした。
王の熱意が通り、法案は否決されたが、議会はヨーク公は子がなく、死ねばオランダ総督に嫁いだメアリかデンマーク王子に嫁いだアンがいずれも新教徒なので、どちらかを迎えればよいとたかをくくっていたのである。安心したチャールズは1685年2月6日に世を去った。慎重だった彼は、死の床で自らがカトリックであることを告げ、息を引き取った、と伝えられている。
こうしてジェームズ2世が即位するが、議会との対立がさらに激化し、名誉革命が勃発することになる。
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王の熱意が通り、法案は否決されたが、議会はヨーク公は子がなく、死ねばオランダ総督に嫁いだメアリかデンマーク王子に嫁いだアンがいずれも新教徒なので、どちらかを迎えればよいとたかをくくっていたのである。安心したチャールズは1685年2月6日に世を去った。慎重だった彼は、死の床で自らがカトリックであることを告げ、息を引き取った、と伝えられている。
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