なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ジェームズ2世は1633年にチャールズ1世とアンリエッタ=マリとの間に生まれた。1640年、7歳の時にピューリタン革命が始まると、一家で王党派の拠点オックスフォードに移った。内戦は国王側の敗北に終わり、オックスフォードも1646年に陥落した。ジェームズはセント=ジェームズ宮殿に監視つきで幽閉されたが、1648年、15歳のジェームズは女装してオランダのハーグへと逃れた。
1660年、王政復古で兄とともに帰国。兄チャールズ2世には庶子は多くても嫡出子がなく、ジェームズが推定王位継承者となった。1660年9月、26歳のジェームズは兄の腹心のエドワード=ハイドの娘アンと結婚した。ハイドは後にクラレンドン伯爵に叙されるが当時はまだ平民であり、イギリスではこのアンが平民の娘として次代の王位継承予定者に嫁した初例となった。
アンはカトリックに改宗しているが、ジェームズがカトリックを信仰するようになったのは、彼女の影響と考えられている。
ジェームズは海軍総司令官に任命され、組織改革をはかって英蘭戦争ではオランダ海軍を破る活躍をした。しかし、1671年、アンは娘のメアリとアンを残し、僅か34歳で乳ガンのため亡くなってしまう。
アンはカトリックに改宗しているが、ジェームズがカトリックを信仰するようになったのは、彼女の影響と考えられている。
ジェームズは海軍総司令官に任命され、組織改革をはかって英蘭戦争ではオランダ海軍を破る活躍をした。しかし、1671年、アンは娘のメアリとアンを残し、僅か34歳で乳ガンのため亡くなってしまう。
1673年、国教徒でなければ公職に就任できない審査法が成立し、公職に就く者は国教会の聖餐を受けるなどの手続きが必要になった。ところが、ジェームズは海軍総司令官の職を続けるにあたって、これらの手続きを求められ、拒絶して職を辞した。これによってジェームズのカトリック信仰は公然の秘密となった。
この年、40歳のジェームズはカトリックである15歳のメアリ=オブ=モデナと再婚したため、彼を王位継承者から排斥する法案が出されたが、上院でかろうじて否決された。この排斥法案に賛成したのが後のホイッグ党(自由党)、反対したのが後のトーリー党(保守党)である。
この年、40歳のジェームズはカトリックである15歳のメアリ=オブ=モデナと再婚したため、彼を王位継承者から排斥する法案が出されたが、上院でかろうじて否決された。この排斥法案に賛成したのが後のホイッグ党(自由党)、反対したのが後のトーリー党(保守党)である。
チャールズ2世は1685年、死の床でカトリックに転向した後、公式な次代国王を決めずに死去した。当時51歳のジェームズが即位したが、兄以上の反動的な政策を展開していく。
ジェームズの即位に反対し、チャールズ2世の庶子モンマス公が王位継承権を主張して反乱を起こすと、これを口実に常備軍を設置。さらに、カトリック教徒の文武官任用を復活させ、審査法を事実上廃止。1687年には信仰自由宣言を発し、カトリック教徒の聖職就任を許可した。翌年、礼拝で信仰自由宣言書を2度読むことを強制、反対したカンタベリー大司教ら7名を逮捕するなど、国民の支持を失った。
ジェームズの即位に反対し、チャールズ2世の庶子モンマス公が王位継承権を主張して反乱を起こすと、これを口実に常備軍を設置。さらに、カトリック教徒の文武官任用を復活させ、審査法を事実上廃止。1687年には信仰自由宣言を発し、カトリック教徒の聖職就任を許可した。翌年、礼拝で信仰自由宣言書を2度読むことを強制、反対したカンタベリー大司教ら7名を逮捕するなど、国民の支持を失った。
ジェームズ2世には先妻との間に娘が2人いた。2人とも父と違ってプロテスタントの国教会信者となった。長女メアリはオランダのウィレム3世に嫁ぎ、妹のアンは独身(後にデンマークの王族と結婚)だった。
ところが、1688年6月に後妻のメアリがジェームズ待望の男子を出産した。ジェームズ=フランシス=エドワード=ステュアート、後に老僭王と呼ばれることになるが、この子にカトリックの洗礼を受けさせた。議会は、将来は国教会信徒のアンが即位するという期待を抱き、ジェームズ2世の暴政に我慢していたが、次の王がまたカトリック信徒ではカトリック復帰が本格化する怖れが出てきた。しかるべき手を打たなければならない事態に追い込まれた議会のトーリ党とホイッグ党は、カトリック復帰阻止の一点で手を結び、ジェームズ2世追放を決意した。
1688年11月5日、議会が招聘したオランダのオレンジ公ウィレム3世とその妻メアリが、アルマダ海戦を凌ぐ5万の軍勢を従えて上陸、もう一人の娘アンも議会側に走ったのでジェームズ2世は孤立し、12月23日にイギリスを離れてフランスに亡命、ルイ14世の提供してくれたサン=ジェルマンの隠れ家に身を寄せた。これが名誉革命といわれる政変で、ウィリアム3世とメアリ2世による共同統治が始まることになる。
ジェームズは、フランス王ルイ14世に保護され、イギリス復帰の機会を待った。アイルランドはカトリック教徒が多く、ウィリアム3世を国王と認めなかったので、翌年、ジェームズはフランス軍の支援を受けてアイルランドに渡り、再起を図ったが、乗り込んできたウィリアム3世のイギリス軍との1690年のボイン川の戦いに敗れた。
フランスでの亡命生活に戻ったジェームズは、1701年9月16日に脳出血で亡くなる。67歳であった。
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フランスでの亡命生活に戻ったジェームズは、1701年9月16日に脳出血で亡くなる。67歳であった。
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