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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー壮絶な親子喧嘩・フリードリヒ大王①

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フリードリヒ=ヴィルヘルム1世

 プロイセンはスペイン継承戦争の際に皇帝側についたことから初めて王号を認められ、フリードリヒ1世が初代国王となった。フリードリヒ1世は贅沢好きで、ポツダム宮殿にヴェルサイユを小型にしたような宮廷生活を繰り広げ、その妻は大哲学者ライプニッツを招いてアカデミーをつくったりして、強国のうわべを飾ろうとした。

 ホーエンツォレルン家には、子は親に似ぬという面白い伝統がある。1713年、24歳で即位したフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、非常な倹約家で、また芸術や文化に何の関心も持たなかった。彼は父のあとを継ぐと、ただちに宮廷の出費に大鉈をふるい、美しい彫刻や珍しい草木に飾られたフランス風庭園を平にして練兵場に変えてしまった。

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 彼がこうしたのも、もちろん考えがあってである。プロイセンはまだフランスの真似などしておれぬ貧しい国だ。土地は不毛の砂地が多く、人口は200万をちょっと超えるだけで、ヨーロッパで13位、国土面積でも10位の貧弱国。このような情勢の中で、プロイセンはどうしたら強くなり、大国に仲間入り出来るか。この青年王にとって、答えはただ一つであるだけ。それは貧しい国力をあげることである。彼の理想は、いつでも戦える姿勢にある針鼠のように武装した軍国プロイセンの完成である。

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「巨人軍」を閲兵する「兵隊王」

 こういう仕事に「兵隊王」フリードリヒ=ヴィルヘルム1世ほどうってつけの王は他にちょっと考えられない。彼は軍事教練が何よりの趣味で、特に2メートル以上の背高のっぽを選りすぐって近衛「巨人軍」を編成し、これを自ら鞭を振るい、号令をかけて訓練した。王は父親から譲られた3万8000人の常備軍をいきなり8万1000人に増やした。これはヨーロッパ第4位の軍勢であり、国民の4%が軍人という軍事国家となった。

 しかし、プロイセンのような小国にとって、これは大きな負担であった。今までのような志願兵や傭兵に頼るだけではとても人数が足りず、また、金もかかるので、彼は徴兵制を実施した。ただ、徴兵制といっても、国民皆兵には踏み切れないので、僧侶・官吏・商工業者・教師は除外し、もっぱら貧しい農民の子弟から兵隊を集めた。農民は土地貴族であるユンカーのために働く賦役労働の代償として、兵隊にとられた。もちろん農民だけでは兵力が不足したので、政府は若者でぶらぶらしている者を見ると、強制的に誘拐して兵営にぶち込んだ。兵営にはしぜん無学な農民や無頼の徒が集まったので、そこから兵営はおのずから「たこ部屋」の観を呈し、鞭と棍棒が横行した。

 軍隊だけではない、「兵隊王」は万事がこの調子で、国じゅうを兵舎と心得、すべての国民をちょうど伍長が練兵場で兵隊を扱うように扱ったのである。

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フリードリヒ2世

 父と子の性格の違いと対立はよくあることだが、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世とその皇太子フリードリヒの場合、特に深刻だった。

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サンスーシ宮殿でフルートを演奏するフリードリヒ2世

 「兵隊王」はその家族に対しても暴君であった。誰にでも「つべこべ言うな」と怒鳴りつけ、すぐに拳固が飛んだ。「兵隊王」は、成年に近づいた息子のフリードリヒに特に腹を立てていた。フリードリヒは軍事教練や狩猟を嫌い、もっぱら部屋に閉じ籠もって哲学や文学の読書に熱中した。さらに悪いことに、彼は自ら詩をつくったり、フルートを演奏したりするのを好んだ。長じてから彼のフルート演奏は玄人の域に入り、サンスーシ宮殿でよく演奏会を行った。また、作曲も能くしたことはよく知られている。彼の作曲したフルート協奏曲は現在も演奏会でとりあげられるほど、完成度の高いものである。

 王はそんな皇太子の顔を見ると棘を含んだ嘲笑を浴びせ、白い眼を店取る容赦なく殴った。そればかりか、王は息子が宮廷音楽師の娘をそばに近づけるのを邪推して、娘をみなの前で鞭打ち、牢獄にぶち込んでしまった。

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カッテ

 息子はこの乱暴な父親に我慢ならなかった。1730年の秋、18歳の皇太子は2人の若い友人とはかって逃亡の計画をねった。父の西ドイツへの旅行に随行し、すきを見てフランスに逃れ、さらに母親の里があるロンドンにわたろうというのである。だが、計画は未然に漏れ、友人の一人は逃亡したが、皇太子とカッテは捕らえられた。

 息子が父親のもとから脱走しようとした。軍隊で脱走は最も重い罪である。怒り狂った王は皇太子に拳固の雨を降らせながら尋問した。

 「なぜお前は逃亡しようとしたのか」

 「あなたが私を息子としてでなく、哀れな奴隷のように扱われたからです」

 「それなら、お前は臆病な脱走兵にすぎん。名誉の感情を持たんのか」

 「あなたと同じくらいに持っています。

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王妃ゾフィー=ドロテア

 ベルリンに帰った王は、おろおろしている王妃に嘘をついた。

 「お前の不名誉な息子は死んだぞ」

 「えっ!あれを殺しておしまいになるなんてー。あなたは何と野蛮なお方かー」

 絶望した王妃は声も出ない。王の顔はなお憤怒にゆがんでいた。

 2人はキュストリンの要塞監獄につながれ、軍法会議の結果、国家反逆罪で死刑が宣告された。処刑日の直前、フリードリヒには国王の恩赦による死刑免除が宣告されたが、カッテの処刑は予定通り執行された。フリードリヒは窓枠に首を押さえつけられ、無理矢理その光景を見せられ、ついに気絶してしまった。

 この事件はフリードリヒの生涯の転機となった。禁固と監視つきの生活の1年の後、許されてベルリンに帰ってきた時、19歳の青年は見違えるように老成していた。彼は考え深くなり、自分しか頼りにしなかった。そして口数も少なく、仕事に勉強にいっそう精だした。父に対して依然根強い敵を抱いていたが、表には出さなかった。あの恐ろしい経験は、服従以外に生きる道がないことを教えたのである。(つづく)


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/07/07 05:34 】

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