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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー君主は国家第一の僕・フリードリヒ大王②

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フリードリヒ2世

 1733年、フリードリヒは21歳で西ドイツの一侯国の公女クリスティナと結婚した。この年から1740年の即位までの7年間、ベルリンから60キロほど離れたラインベクルス城での生活は、フリードリヒの生涯のうちで嵐のあとの小春日和のように一番平穏、また色彩に富んだものであった。

 独裁者の父王によって実際の政治から閉め出されたいたおかげで、彼は軍務のかたわら哲学、文学、政治の勉強に好きなだけ時間を費やすことができた。気の合う友人が集められ、静かな、しかし知性と活気に溢れた小世界がつくられた。夜など、素人芝居にフリードリヒも加わり、音楽の演奏では彼はフルートを受け持ち、時には作曲もやった。

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ヴォルテール

 この時期に、フリードリヒの最大の喜びはフランスの哲学者ヴォルテールと文通を始めたことであった。1736年、彼はこのフランス啓蒙思想の巨人に初めて丁重な手紙を送り、日頃の賛嘆の気持ちを打ち明けるとともに、今後自分の先生になってくれるように頼んだ。ヴォルテールはこれに対し、いかにも彼らしく次のように答えた。「あなたは余りにお世辞が過ぎます。しかし、人間のように考える君主、人を幸福にしようと願っている哲学者の君主がいることを知るのは、たいへん純粋な喜びであります。」

 皇太子と哲学者の間には、これから文学や哲学を議論する親密な手紙がたえず取り交わされた。2人の交友は、お互いの信頼と尊敬に支えられて、しばらく楽しい密月が続いた。


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『反マキャヴェリ論』

 1739年、フリードリヒは自分の政治思想をまとめる論文を書いた。それは『反マキャヴェリ論』という題で、イタリア=ルネサンスの偉大な政治思想家マキャヴェリを批判したものだった。

 その中で、フリードリヒは「人民の幸福は君主のどんな利益よりも大切だ。なぜなら、君主は決してその支配下にある人民の専制的主人ではなく、第一の僕【しもべ】に過ぎないからである。」と述べた。「国家第一の僕」という言葉はその後、「第一の役人」「召使い」「執行者」と多少表現を変えながら、彼の生涯を通じて啓蒙君主の義務と責任を果たす言葉として用いられた。

 フリードリヒはこの論文の草稿をヴォルテールに送り推敲を頼んだ。ヴォルテールはこれを「マルクス=アウレリウス以来君主が著した最良の書」と褒め称え、彼の斡旋で翌1740年オランダで匿名で出版された。

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サンスーシ宮殿

 1740年、彼は即位してフリードリヒ2世となった。それから、ポツダムにこじんまりしたロココ風のサンスーシ宮殿を造り、好んでここに住んで、自分を「サンスーシの哲人」と呼んだりした。

 なお、サンスーシ Sanssouci とは、フランス語で、「憂いの無い」ことの意味であるので、無憂宮とも言われる。ドイツの宮殿なのに名前がなぜフランス語なのか不思議に思うかも知れないが、フリードリヒ2世がヴォルテールの影響でフランス文化に心酔したため、当時のドイツではフランス語が公用語として使われていたからだ。フリードリヒ2世も日常はフランス語を用いており、ドイツ語は不自由であったと言われる。

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ヴォルテールとフリードリヒ2世

 1750年、フリードリヒ2世はヴォルテールをサンスーシ宮殿に招待した。ヴォルテールはたいへん歓待され、サンスーシとベルリンの王宮にそれぞれ部屋を与えられた。建物も調度も、それから知的雰囲気もべてフランス的であり、ヴォルテールは永住するつもりだった。

 文学や哲学についての会話は楽しかったが、我の強い2人がしょっちゅう付き合うとなれば、衝突が起こらないのがむしろ不思議である。やがてヴォルテールは、フリードリヒの文学の弟子としての謙虚さと王者の尊大さの使い分けにいらいらし始めた。ヴォルテールはというと、彼は利殖の才にもたけていて、株や公債の売買をやって大儲けしていたが、ベルリン滞在中も違法の投機をやり、いかがわしいユダヤ人の仲買人を裁判沙汰を起こしてしまうという始末に、フリードリヒは呆れてしまう。

 次第に2人は衝突するようになり、1752年、2人は喧嘩別れするはめに。ヴォルテールはフランスへ帰り、怒ったフリードリヒ2世は友人への手紙で彼の悪口をさんざんぶちまけた。「ヴォルテールは、私が今まで会った中で、一番意地の悪い気違いだ。彼は書いたものを読むに限る。彼が統治で働いた二枚舌、破廉恥、不正行為は、君にはとても全部は想像できぬだろう。」と。


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フリードリヒ2世の墓に供えられたジャガイモ

 サンスーシ宮殿のフリードリヒ2世の墓にはジャガイモがお供えされている。何故か?

 アメリカ原産のジャガイモがヨーロッパに伝えられたのは16世紀のことであったと考えられているが、16世紀末から17世紀にかけては植物学者による菜園栽培が主であった。ヨーロッパ北部の主作物は小麦やライ麦であったが、これらの穀物は収量が少なく飢饉が頻発していた。そのためヨーロッパ各国は戦争をくり返し、敵の麦畑を踏み荒らしたり、貯蔵庫の麦を略奪した。

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農民を指導するフリードリヒ2世

 フリードリヒ2世は、寒冷でやせた土地でも生育するジャガイモの栽培を奨励し、それまで休耕地となっていた土地にジャガイモや飼料作物(クローバーなど)の栽培を奨め、自ら普及のために領内を巡回してはキャンペーンを行った。ジャガイモをその外見から民衆が嫌っていることを知るや、毎日ジャガイモを食べて率先垂範し、さらに民衆の興味を引き付けるためにジャガイモ畑をわざわざ軍隊に警備させたうえ、警備兵には畑のジャガイモが盗まれても気付かないふりをするよう命令した、といった逸話が伝えられている。

 ジャガイモは畑を踏み荒らされても収穫できたし、畑を貯蔵庫がわりにして必要なときに収穫できたので、戦争の被害が比較的少なかった。カロリーも高く、それに茹でるだけで食べられて、そのうえに美味い。ジャガイモ栽培は農民の食糧事情の改善に大きな役割を果たした。お墓にお供えされるジャガイモはドイツ人の感謝の証というわけだ。

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 粗食を旨とした父王と異なり、フリードリヒは美食を好んだ。昼食は8皿、うち4皿はフランス、2皿はイタリア、残りは王の好む、香辛料を効かせた鰻やトウモロコシの粥やベーコン料理であった。また、新鮮な果実も好んだ。夕食は来客のある時以外は摂らなかったが、その時は30皿もあった。このような食事に金をかけたために宮廷の食事予算は、現在の貨幣価値で年間1億円を優に超えるほどであった。

 そんな美食家であるフリードリヒだったが、実はサクランボが大好物だった。ある時、食べ頃のサクランボを食べてしまうスズメに腹を立て、スズメ駆除の命令を下して徹底的な駆除を行わせた。ところが今度は天敵が消えたことで毛虫が大発生し、葉を食い荒らされたためにサクランボが実らなくなるという結果を招いてしまった。フリードリヒはこの結果に自らの非を悟り、以降は鳥類の保護に努めたという。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2020/07/10 05:19 】

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